湾岸戦争という人体実験 | 目次 |
米陸軍環境政策局によれば、湾岸戦争で使用された劣化ウラン弾は大口径のもので1400発、A−10対地攻撃機からの発射が94万発、使用総量は800トンにのぼるという。地上戦と掃討作戦の合間には、大量の155ミリ化学弾入りの箱がクウェート戦域作戦本部(KTO)の多国籍軍部隊によって、秘密裏のうちに復旧された。それらはアメリカで製造され、ヨルダンを経由してイラクへと運ばれたものだった。スカッド・ミサイルも無関係ではなかった。米英両政府はサダム・フセインが生物化学兵器を使用することを当初から知っており、フセインが生化学兵器工場を作るのに必要なだけの手段をすでに与えてしまっていた。スカッド・ミサイルの弾頭は『混合搭載法』と知られている、生化学物質との混合物と弾薬の組み合わせで形成される。『リーグル報告書』にはアメリカからイラクに供給された生物培養剤など61もの有害物質が表記されている。それら有害生化学物質は1985年から1989年にわたってアメリカからイラクへ大量に運ばれていた。
1991年1月19日早朝、米兵は空から伝わる奇妙な爆発音で目覚めた。それは地上爆発ではなく、空中爆発によるもので、スカッド・ミサイルからは霧状の物質が雲のように広がっていった。NAIAD探知機は「NBCコンディション・ブラック」という緊急警戒を鳴らし、その20分後には安全を意味する「NBCコンディション・ホワイト」が作動した。しかしさらに20分後には再び警戒警報が、その後8時間にわたって鳴り響いた。後に米兵士たちは上官から「飛行機の燃料によるもの」としての報告を受けたが、湾岸戦争終結後、自分とその家族、子供らに様々な疾患が出はじめる。軍の病院に駆けつける多くの兵士たちは、単なる精神的なストレスと診断され、奇妙なことにはカルテが消失するということが相次いでいた。
一方、多国籍軍による劣化ウラン弾を浴びせられたイラクでは、幼児の死亡率が湾岸戦争後には19倍に増加していた。国土の汚染は白血病を増加させ、水を浄化する塩素剤は「化学兵器に転用される」という理由で輸入が禁止され、ために衛生状態の悪化で赤痢、チフス、コレラ患者が急増した。劣化ウラン弾は標的に当たると微粒子となって飛散、イラクの国土を汚染していた。非武装地帯に散在する劣化ウラン弾は子どもたちの格好のオモチャとなって、その子どもたちの被害者は後を断たない。病院には子どもたちの白血病とその併発による様々な疾患のために専用病棟が設けられている。