あれ以来、捨て猫の小猫は全く姿を見せなくなった。雨が激しくなってきた今、益々生き延びることは難しくなった。誰かに拾われることを願っている。小猫が逃げた方向には、私が椿屋敷と呼ぶところの豪邸がある。ひょっとすると、そこの住民に拾われたかも知れない。そうであれば、私のような貧乏人に拾われるよりは幸せというものだ。
今現在、これを書いている私の膝には、チロを筆頭に五匹の猫たちが乗っかっている。かなり重く、かつ下半身が痺れ、何より邪魔である。残り五匹は工場二階に隔離している。雌と雄のグループに分けているのだ。これを一週間ごとに交代させている。ストレスが溜まらないよう、その都度外で遊ばせている。その光景を例の捨て猫の飼い主も見ていたのだろう。ここに猫を捨てれば拾ってくれるだろう、と・・・すでに10匹もいるのに、たまったものではない。
猫だけではない、空き缶などゴミも投げ込まれる。国道沿いにあるので、車の窓からポイ捨てするのだ。あの小猫も車から投げ捨てられたのかも知れない。玩具のように、ペットとしての猫も飽きられ、そして捨てられたのだろうか。ペットを命あるものとして考えられない精神構造は、人間もまた命として考えられない心を内包している恐れがある。他人の痛みなど意に介さない、自分自身ですら命としての自覚が欠落している新人類・・・見ず知らずの他人を発作的に殺し「誰でもよかった、人間を壊してみたかった」と殺害動機を告白した少年のように・・・
現実はムダに満ち満ちている。人間の作ったものはムダなくスッキリと合理的にできている、ように見える。自然においてはムダなものは一つもない。人間はむしろ、ムダがムダとしか見えない自分を恥ずべきなのである。人工システムの合理性は、そのシステムの内部だけでの一面的な合理性である。トータルシステムとのかかわりあいの中で検討してみると、それがとんでもなく非合理であることがしばしばある。ここに、数量化できないものを恐れることと、数量化できないものに対処するチエが必要だ。
【立花隆著「エコロジー的思考のすすめ」218-219頁「エピローグ」より引用要約】
猫は飼い主に捨てられた瞬間からムダとなり、野良猫となる。自然界ではムダなものが何一つないはずなのに、人間社会の合理主義はムダを排除するためにムダを探しているかのようだ。ここでは、心も数量化できないゆえにムダとなる。合理主義推進に心はムダ、人の心の痛みも数量化できない、ゆえにムダになる。こうした経済効率合理主義を今の構造不況に適応すれば、人間もまたムダな排除すべき存在となりかねない。利益を生まない人間は排除されるべき存在であるかのように・・・である。現政権の推進する構造改革はムダを許さない合理主義によって、より無慈悲で冷酷なものになってきているとはいえまいか?
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