私の隣人である二本の木、驚くべき活力をもったタイサンボク【1】と、絶妙に非物質化し、霊化した盆栽とのあいだに私はすわって、この対照的なもののゲームを観察し、それについて熟考し、炎暑の中でまどろんだり、一服したりして、夕方になって少し涼しい風が森の方からそようでくるのを待っている。(中略) 毎日、数通の手紙が届く。私に賛意を表するものもあるし、私を弾劾するものもある。とほうもなく楽天的で悲観論者の私を責めるもの、その一方は、深い苦悩と絶望から私の意見に同意し、そして熱狂的にそして過度に是認しているものである。
もちろん両方とも、タイサンボクも盆栽も、楽観主義者も悲観論者もどちらも正しい。ただ私は、前者を後者よりも危険だと思う。なぜなら、私は、あの熱狂的な満足と満ち足りた高笑いを見るたびに、あの1914年を、あのいわゆるとても健康な楽観主義を思い出さずにはいられないからである。その楽観主義をもって当時諸民族がすべて何もかもすばらしく、魅力的だと思い込み、戦争というものは本来相当に危険で、無法な企てであり、おそらく悲しむべき結果になるであろうと警告したあらゆる悲観論者を銃殺するぞと威嚇したのである。
そうなのだ。悲観論者は、ある者は嘲笑され、ある者は銃殺された。そして楽観論者たちは、何年間かこの偉大なる時代を賛美し、歓呼の声をあげ、勝利を収めたけれど、やがて彼らと彼らの民族は凱歌に疲れ果て、、勝利に疲れ果て、とつぜんくずおれた。そして今では、かつての悲観論者たちになぐさめられ、生き続けるようにと励まされねばならぬことになった。
そうだとも。もし私たち知識人と悲観論者が私たちの時代をただ弾劾し、きびしく批判し、嘲笑するだけならば、私たちはもちろん正しいとはいえない。しかし結局、私たち知識人は、この時代の一面を具現する権利をもっていないであろうか?この問いに私は堂々と「その権利がある」と答えたい。
この絶妙な対照をなす二本の木は、自然界のすべての事物のように、この対立に無頓着に、それぞれが自分自身と、自分の権利とを確認して、それぞれがしっかりと、粘り強く立っている。タイサンボクはみずみずしくふくらみ、その花はむせかえるような香りを送ってくる。そして盆栽の木はその分だけいっそう深く自分自身の中に引きこもっている。(1928年)
【ヘルマン・ヘッセ著「わが心の故郷・アルプス南麓の村」、221-223頁「対照」より要約引用】
【1】-たいざん‐ぼく【泰山木・大山木】 モクレン科の常緑高木。北アメリカ原産で庭園に栽植される。高さ一〇メートル以上になる。葉は柄をもち、長さ一二〜二〇センチメートルの長楕円形。表面は暗緑色で光沢があり、裏面は赤褐色の細毛を密布。初夏、枝先に強い芳香のある白い大輪花が咲く。花は径一五〜二〇センチメートルで、ふつう花弁状の萼片三個と、六個の花弁からなる。果実は円柱状広楕円形で長さ約八センチメートル。多数の袋果から成り、それぞれの中に赤い種子が二個ある。《季・夏》
ヘッセの知識人としての苦悩が伝わってくるような文章である。悲痛な平和は自虐の装いで陰鬱な表情をして考え込み、楽観主義の戦争は元気よく大道を大股で闊歩しながらやって来る。おりしも昨日は「医師らに有事協力義務 自衛隊法施行令改正案」のニュースが報じられていた。傷病患者をつくり出す戦争を是認する医療関係者とは?予防医学の見地からしても矛盾するのではないか。
ヘッセのいうタイサンボクや盆栽は沙羅双樹【2】を意識したものではないだろうか。彼の著書「シッダールタ」によって何となくそう感じているのだが、日本でも沙羅双樹の木は仏教寺院の殆どで植えられている。釈迦涅槃の木として有名だが、本来は別種原産の樹木らしいとも云われている。私の庭にも沙羅双樹が植えてあるが、対をなす二本の幹に何かしら意味ありげな風情を感じ取ってきた。繊細可憐で透明な絹のような花は神秘的である。仕事の代金代わりに知人から譲り受けた盆栽だったが、元来が盆栽嫌いの私が庭に植えなおしたものだった。伸び伸びと育ってほしいと思ってのことだが、今では屋根を超さんばかりの勢いである。去年急死した従兄の庭にも植えられていて、私は読経の最中にも沙羅双樹に見入っていたものだ。晩春の日差しが眩しかった。
【2】-さらそうじゅ(‥サウジュ)【娑羅双樹】
1 フタバガキ科の常緑高木。インド北部原産で、日本では温室で栽培される。幹は高さ三〇メートルに達する。葉は互生し有柄の卵状楕円形で先はとがり長さ一五〜二五センチメートル。葉柄の基部には托葉がある。葉腋に径約二センチメートルの淡黄色の五弁花を円錐状に多数集めてつける。果実には長さ五センチメートルぐらいの、萼が生長した翼が五枚ある。材は堅く、くさりにくく、インドの代表的有用材で、建築材、枕木、橋梁、カヌーなどに用いる。樹脂はサール‐ダンマーといい、ワニスや硬膏の原料になる。釈迦が入滅した場所の四方に、この木が二本ずつ植えられていたという伝説からこの名がある。しゃらそうじゅ。さらのき。さらじゅ。しゃらじゅ。
2 「なつつばき(夏椿)」の異名。
ヘッセ
(Hermann Hesse ヘルマン―)ドイツの小説家、詩人。一九二三年以降スイスに永住。現代文明への批判を深め、心の深奥の探究と東洋的神秘への憧憬の結びついた小説を書いた。作「車輪の下」「デミアン」「ガラス玉演戯」など。(一八七七〜一九六二)
小説「車輪の下」にあるように、ヘッセ自身も牧師の子として神学校に入るも中退している。両親、祖父母ともにインドで布教活動、信仰に厳格な幼年期をインドで過ごしている。1904年の青春小説「ペーター・カーメンツィント」は、ヘッセのそんな感傷的懐古から生まれたようだ。日本では「郷愁」として翻訳された。1911年のインド旅行を経て、第一次大戦中にはロマン・ロランらと親交を結びながら戦争を真っ向から非難している。
彼は執筆活動を通じて、終始一貫して精神と自然の対立に苦悩する自分の内面的葛藤を追及、1930年の「ナルツィスとゴルトムント」では官能と精神の融合を模索する。1943年の「ガラス玉演戯」は10年の歳月をかけた大作として、精神のユートピアを描いた。1946年にノーベル文学賞受賞。
小説「知と愛」はヘッセが学んだマウルブロン修道院(Maulbronn
Monastery)が舞台となった。彼が学んでいた当時の、その100年前にはドイツの詩人ヘルダーリンらがいた。1993年、世界文化遺産に登録。
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