03/08/26 (火)
 れいんぼう「がおの部屋」で旧約聖書から「七つの民を滅ぼせ」と「恐れるな」が引用されているが、それとは対照的なものを新約聖書から抜粋する。

「ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも同じことを行っているからである。わたしたちは、神のさばきが、このようなことを事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っている。ああ、このようなことを事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは神のさばきをのがれうると思うのか。それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。あなたのかたくなな、悔い改めのない心ゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、他方では、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加えられる。悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、艱難と苦悩とが与えられ、善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、光栄とほまれと平安とが与えられる。なぜなら、神には、かたより見ることがないからである」
ローマ人への手紙、第二章より抜粋

 これらを対比してみると、旧約聖書に新約聖書が諌めているようにも取れる。旧約聖書の神は、ユダヤ人を神の選民として位置付け、煽動しているかのようだ。唯一神の危険はまさしくこの排他性にある。毎日のように死者が出ているパレスチナにおいて、その土地は元々ユダヤ人のものとして返済を拒否するイスラエル人は、その理由を旧約聖書に提示する。イスラエル兵がパレスチナの少年を蹴散らす際に使用しているゴム弾は、そのオモチャのような印象を与える言葉とは裏腹に、容易に頭蓋骨を撃ち砕くことの出来るわずか0.5ミリの薄いゴムの膜に覆われた「鉄の弾」であることを知るべきだろう。矛盾に満ちた聖書は、そのまま現代史の偽善を象徴しているかのようでもある。
 
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