03/07/07 (月)
 アムナート氏に対する政治マフィアの圧力は、まず彼の新聞の広告主に広告を断念させるといったかたちで行われた。これに1997年の通貨危機が追い討ちをかけた。これで新聞社の経営は完全に行き詰まり、1万部の発行部数を誇っていたのが500部にまで落ち込んだ。しかしアムナート氏はたった一人でも新聞社を継続することを決意、汚職追及の調査を開始する。その二ヵ月後に彼は襲撃されるのである。妻のポンパーンさんは云う。
ポンパーンさん
アムナート氏
 恐いです。家族全員が殺されるのは恐いけど、でも起きることはどうしようもありません。もしこの世界で闘おうとする人がいないと、マフィアはますます大きくなります。今はマフィアは恐くありません。一番恐いのは銀行です。私は泣き虫です。銀行の話をするとすぐ泣いてしまうんです。
 地元の記者はただ事柄をリポートするだけの報告者にすぎないのです。身に降りかかる危険を怖がって、市民のために働く勇気がないのです。本当の新聞記者ではありません。
 ポンパーンさんはかつて美容院を経営していたが、夫アムナート氏の志に感銘してから繁盛していた美容院を新聞社に改装した。自らもジャーナリストとして夫を支えるため大学に再入学しジャーナリズムを学んだ。
 アムナート氏の襲撃事件ではアメリカのニューヨークタイムズやリーダーズ・ダイジェストなどでも取り上げられ大反響をよんだ。そしてアメリカのあるNGOから資金提供の話もあって何とか「北部日報」は息を吹き返す。しかし経営は相変わらず苦しく、2001年、夏、取引銀行から一通の書類が届く。それは「借金は2400万に達し、7日以内に返済しなければ新聞社の建物を差し押さえる」という通達であった。2002年、10月、ついに新聞社は差し押さえられる。会計担当の妻ポンパーンさんは友人たちから資金調達のため借り入れに奔走し、夫アムナート氏は不休不眠で新聞を刷り続ける。
 アムナート氏を襲ったのは軍人で、チュンマイ拘置所に三年間収容されている。四人の男はその後仮釈放され、事件から三年後の今も裁判が続けられている。犯人たちの背後にいる人物を追及できないのは、警察の調書には実行犯のことしか言及されていないからだ。彼らは誰かに依頼されたということを否定している。警察は実行犯と依頼した人物の間に入った仲介者を捕まえていない。仲介者を捕まえないと依頼した人物を逮捕するのは困難になる。アムナート氏は云う。
 また撃たれることは分かっています。でも私は恐れません。逆に危険だからです。恐がらなくても死ぬ、でも闘ったほうが生き延びられる可能性は高いのです。私にとって死は大したことではありません。出来る限り自分の義務を果たしていきたい。それだけで満足です。
 【関連サイト=「それでも書きつづける」】
(つづく)
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