03/06/17 (火)
 裏のパチンコ屋の駐車場にはいつも数台の車が駐車している。パチンコ屋は営業していないので、無断駐車ということになる。子供たちが遊び回り、夕方になると車ごと何処かへ消えていく。これが毎日繰り返されている。何か事情ありとみた。想像するところ、借金の返済から逃れているか、そんなところだろう。事情はどうあれ、子供たちは活き活きとして、駆け回る。猫は自然を眺めるのを好む。金網の張った窓から我が家の猫族たちが、山の遠景や、子供たちの戯れる様子を、じっと眺めている。「あっ!猫がいっぱいいるよ!」目ざとく猫を見つけた子供たちが騒ぐ。
 遊びに興じる子供たちを見ながら、彼らが大人になった時のことを考える。その未来はおそらく好ましい社会ではないことは容易に想像がつく。先送りしてきた膨大な国の借金は、否応なく若者のライフスタイルをシンプルなものに変えていくだろう。社会保障制度の破綻はより深刻で、今も現実に起きている国民年金の空洞化(99年3月末、未納者172万人、免除者400万人)は途方もない増加率を示すはずだ。失業者は一般化し、破綻した国の財政では保障のしようがない。仕事が無い、収入が無いのに払えるはずもない税金。小泉内閣が打ち出した改革は、次世代内閣に受け継がれては次々と断行され、それは弱者切捨ての非情な側面を露わにする。フリーターは当たり前、生産を無視してきたツケは技術継承を中断し、何も生み出さない脆弱な経済基盤と成り下がる。
 そんな危うさの中で若者たちは社会の価値観を根本から覆す、人間の命や心に根ざした価値体系を求めていく。そして、そこにもオウム真理教事件のような大きな落とし穴が待ち受けるだろうが、模索する潜在意識に内面的な葛藤をもって克服しようとする動きも出てくる。私はそれらの漠然とした予感に期待する。イスラム教、キリスト教、仏教に共通する教え「汝、殺すなかれ」すら守られてこなかった人類の原罪が、自らの潜在意識の中で蘇えるとき、打ち震え慄き心底から真理を求める心の転換期を迎える。生きるとは?死とは?人間は何処から、そして何処へ行こうとするのか?自分の心を探る過程で、自らの命が激震する。
 いずれ仕事の様相も一変するだろう。何に仕えるのか?カネをカネで買うような経済体系がいかに無意味であったか気付かされる。カネに平伏さない命と心に根ざした経済理念、自然形態の範疇を逸脱しないテクノロジー、命と心に関わる自然と人間との共生事業・・・仕事が労苦と感じさせないほど楽しんでいる、その証拠としての笑顔が溢れる世界。やっとここまで来たんだね。みんな嬉しそうに笑ってる。ここでは嬉しい心がエネルギーの源泉なんだ。大気が人間の感謝で放射する、そんな光り輝く世界のことを考えていたい16時10分現在の私心。
 世界とは何だろう。歴史とは何だろう。人間の存在とはいかなるものか。国家とはそもそも何なのか。人知とは何か。(中略) 9.11ほど苛烈で効果絶大な「試薬」はなかった。この劇物でもある試薬によって剥ぎ取られたヴェールの下から、まったく意想外の貌が次々露出してきている。眼前に次第に浮き出てきつつあるもの・・・それは、国家の途方もない暴力性であり、人間の限りない非人間性であり、歴史の不可測性であり、人知というものの存外な底の浅さではないだろうか。まさに我が眼を我が耳を疑うばかりである。いま我々は、世界や歴史や人間存在や国家の動態をつなぐものが偉大な哲理や深遠な法則性などてはまったくなく、ひょっとしたら、瞋恚や狂気や衝動に過ぎないのではないか、もっぱらそれらに支配されているのではないかという、うち払おうとしても払いきれない懐疑のただなかにいる。意馬心猿の景色はいったいどこまでつづくのだろう。人間は果たしてどこまで非人間的になれるのだろうか。答えはまだ見えていない。道標はつとに失われ、もはや信ずべき道案内もいない。さしあたりわかっているのは、世界や歴史や人間存在や国家や人知の、哀しいまでの寄る辺のなさである。そして、どこかでいままた新たな戦争が立ち上がりつつあるのだ。(中略)
 きたるべき(あるいはすでに到来した)戦争の時代を生きる方法とは、断じて強者への服従ではありえない。人間(とその意識)の集団化、服従、沈黙、傍観、無関心(その集積と連なり)こそが、人間個体がときに発現する個別の残虐性より、言葉の真の意味で数十倍も非人間的であることは、過去のいくつもの戦争と大量殺戮が証明している。暗愚に満ちたこの時代の流れに唯々諾々と従うのは、おそらく、非人間的な組織犯罪に等しいのだ。戦争の時代には大いに反逆するにしくはない。その行動がときに穏当を欠くのもやむをえないだろう。必要ならば、物理的にも国家に抵抗すべきである。だがしかし、もしもそうした勇気がなければ、次善の策として、日常的な服従のプロセスから離脱することだ。つまり、ああでもないこうでもないと意義や愚痴を並べて、いつまでものらりくらりと服従を拒むことである。弱虫は弱虫なりに、小心者は小心者なりに、根源の問いをぶつぶつと発し、権力の指示にだらだらとどこまでも従わないこと。激越な反逆だけではなく、いわば「だらしのない抵抗」の方法だってあるはずではないか。
(辺見庸著『永遠の不服従のために』あとがきより)
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