このところ日々雑感での私の弱気が指摘されてきている。日頃の私もそうなのだが「なんか元気がないね」とよく云われる。以前なら「相変わらず元気がいいね」と云われていたのを振り返ると、今は自分でも弱気になっていることは否めない。不況だからこそみんなで連絡取り合って励ましあおう、といった業者間での私の提言が、いつしか慢性的な反応の鈍さが私をして無力感に貶めているようだ。何とか生活苦から脱却しようとみんな必死なのは分かる。しかし、そのために「自分が苦しいのに他人のことなど知ったこっちゃない」と云われると、云うべき言葉を失い無力感に囚われてしまう。一つの現場にドッと職人が押し寄せる場面では、どうしても「お先にどうぞ」と引き下がってしまう自分の性格も災いしている。つまり、仕事を譲って自分が困るのだ。小学校の運動会で、私は母からこっぴどく叱られたことがある。先頭のほうを走っていたのに、障害物のところで立ち止まり、後から来る者に先を譲るとは何を考えているのか?というわけだ。子供の私には、先を争って褒められる、ということが理解できなかった。これは大人になっても変わらない。ただ現場に入ると頑張ることはあるが、その報酬に関しては無頓着なところがある。早めに仕事を終えると、手伝ってくれた職人にビールをふるまう。そんなことばかり繰り返していたのだから会社が潤うはずもない。会社を伸ばそうとする気持ちも薄かったから、銀行からの融資を受けて拡張することもなかった。融資を受けて拡張してきた会社の殆どが倒産した今、結果的にそれが不況下で何とかわが会社が永らえたことにもなった。しかし、今度の構造不況はそれでは済まない深刻さで、わが零細会社も休業せざるを得なくなったわけだ。
不況の中でも「おまえは呑気なものだ」と云われてきた。別に呑気にしてきたつもりはないが、バブル経済絶頂期にあっても「株はいずれ暴落するから売ったほうがいい」と提言しては、周囲から変人扱いされてきた。やがてバブルが弾けた時点で「おまえの云うとおりになったな」と云われ、今度はどうなるんだ?と訊かれる。それこそ「そんなことは知ったこっちゃない」生活苦に喘ぐ自分がいるばかりだ。私が問題にしたいのは、そうした金銭欲が不況を招く起爆剤になったことにあり、そろそろ欲を捨てて楽になったらいい世相のことである。ところがどうだ?「モノへの執着が日本経済を駄目にした。これからは心の時代だ」と知識人が云い始めると、生産からサービス業に鞍替えして心までも売り買いするようになった。何処までも人間社会には欲望が付きまとう。それが経済の推進力だと云わんばかりに、勝ち組、負け組に大別している。むろん全ての欲を捨てたら人間生きていけないのは承知している。私の云いたいのは、心の安らぎを根底にした足るを知る質素な生活は決して奪い取られることがない、ということだ。そうした個々の人間の価値転換を経ずして救いはないのではないか?人間ですら値踏みされる拝金社会の未来は見え透いている。欲望の対象となる全ては、サービス業にしろカネで代替えされるモノであり、心ではない。心ある社会の模索が今もっとも求められている時代ではないか、と・・・12時40分現在の雑感しばし
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