今月は殆ど仕事がない。ということは収入も途絶えるということだ。そして、現実にそうなっている。生活費は借金で賄う。その利子が蓄積され、返済しても減ることはない。それでいて「貧乏を楽しもう」などと楽天主義を云う私は、自己欺瞞も甚だしい。私は「呑気」という言葉が好きだ。しかし、この言葉にはある種の危険が伴なうことにも気付いている。本来の楽天主義の意味合いから、怠惰に向かう危険のことである。つまり、私の呑気は単なる怠惰であってダラシガナイだけではないのか?と疑問を抱き始めるのだ。かくして自責の念に囚われるばかり、何処かで歯止めをかけないと甚だ困ったことになる。
数年前、私の幼なじみが200万の借金を苦にして自殺した、と人伝に聞いた。彼の性格からして、借金を苦にするような人間ではないと思っていたが、どうやら離婚の果て子供に会えないのも苦にしていたらしい。離婚と借金と、そうした苦悩が複合的に絡み合っての自殺だった、らしい。ひとりの人間の心を推し測るのは難しい。同じ苦悩のレベルまで自分の心を落とさないと、その精神的苦痛は分かろうはずもない。自殺という瞬間の身体的苦痛を決行するまで彼を追い詰めたものは何だったのか?仮に、彼がそんな苦悩の最中にあっても、「呑気」という言葉の意味を模索する思慮深さがあったとしたら、どうだろう?おそらく自殺は思い留まっていただろう。
借金が苦となる過程には、紙切れにしか過ぎない紙幣の授受という約束事が、精神的苦痛にまで至る心の動きがある。これに歯止めをかけるために「呑気」という言葉は妙薬とは成り得ないだろうか、と考えるのだ。呑気に眠りこけている猫族の固まりに「おまえらは気楽でいいよなぁ」と云ってみる。ダラシナイこのうえない彼らは、ただ生きるためにだけ生きている。それで済まない人間社会とはなんと生き難い世界であろうか。このたびの一連の貧乏生活は、私の価値観を根底から覆すに十分な効果があった。利害で繋がっていた同業者や知人、友人は全て離れて行った。すっきりした。それと同時に孤独という代償も得たが、それは考えようによっては自由を得たことになりはしないか?と考え始めている。かつての価値観の崩壊によって、まったく新しい価値観が誕生したのだと・・・そして、それらがダラシガナイだけに思われがちな「呑気」といった言葉に集約されている、ような気がしている。
「ああ、面倒くさい!」と投げ出して野原に寝そべって青空を仰ぐ呑気な心よ。明日の風は明日に吹く、明日にも出来ることは今日するな。チャラにしていい約束事はチャラにしろ。取り返しのつかないことは何もない、百年もしないうちにみんなシャレコウベの命だ。宇宙がもの凄い速度で膨張し遠ざかっているように、いずれは死神と交代に貧乏神も離れていくさ。死んだように生きる化石とならなければ、それでいい。生きている今の命を楽しめば、それでいい。
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