今日は朝からどんよりした鉛色の雲がかかっている。工場内も薄暗く、昨日仕上げたばかりのベース二台が置かれている。母の生まれ故郷、その四人姉妹の末の妹から電話あり。私にとっては叔母にあたる。今月、他界した長女と、すでに他界した私の母を含め、四人姉妹も残り二人だけになってしまった。寂しいと云う。今度は自分の番かも知れない、と落胆している。母の実家は県の中通りにあり「海の近い浜通りに遊びにおいでよ」と誘った。夏、休憩所で海を眺めながら、二人だけになった姉妹と昔話に話の花を咲かせるのもいい。私は自分の母に、そうしてあげたかった。そんな取り返しのつかない後悔が先に立つ。学校を卒業したばかりの孫の就職先が決まらないと嘆く。本人も諦めているらしく、何にもしないで家でごろごろしているらしい。窘めても意に介さない、困ったもんだと・・・ごろごろしているようで本人は焦っているものだよ。そのうえ責められたら居場所がなくなる。このうえは何にも云わずに見守るしかない。こんなことを云うと、放任主義の極みだと非難されかねないのは承知している。「困ったもんだ」を口にする親が困る以上に、就職先がみつからない当人が困っているのだ。困っている当人に「困った奴だ」というのは追い打ちをかけるようなものであろう。それら全てが私にも身に覚えがあることばかりだ。黙って見守るのと、諦めて放任するのとは違う。いかに我が子であっても、人格は別だ。一人の人格者として我が子をみるとき、まずは当人の意思決定を尊重すべきなのではないか。親が黙って見守るというのは、決して我が子を見限らない忍耐のことである。そこに愛情があれば、いつか必ず子供は分かってくれる。分からないはずはない。それが自然の理なのだとも思う。深刻な引きこもりは親が我が子を見限ったことに起因するのであり、暖かい視線で見守られている環境においては決して起こり得るはずがない。ちょっとした素振りや態度から、それは子供が敏感に感じ取っている。子供が親から自立するときには、人格者として子供が巣立つときだ。その人格を無視または破壊しておいて「困ったもんだ」を云うは危険ですらある。末期癌の母の言葉を思い出す。見舞い客の励ましに「みんな頑張ってと云うが、何を頑張ればいいのかなあ?」と呟いた母だった。頑張ってもどうしようもないことがある。そんなときには頑張らなくても良い、自分の人生と向き合う自然の流れに沿うことも必要なのではないか。自戒を込めて、そう思う。午後2時半現在、朝から何も食べていないことに気付く。ご飯を炊くのを忘れていた。
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