モスル無血開城、4個師団が降伏 [読売新聞]
【ワシントン=伊藤俊行】米軍特殊部隊とクルド人武装勢力は、イラク時間の11日未明(日本時間同日朝)までに、イラク第3の都市で北部の拠点、モスルに入った。モスルを守るイラク第5軍団(4個師団、約4万人)の司令官とモスル市長が10日夜までに、米軍に降伏を申し入れたためで、モスルは“無血開城”となった模様だ。
ラムズフェルド国防長官は米東部時間の10日夜(日本時間11日朝)、記者団に、「(米軍主導部隊の)モスル入りは、秩序だっており、住民の歓迎を受けていると聞いた」と述べ、モスルが事実上、陥落したとの見方を示した。これにより、イラク軍が組織的抵抗を続けている都市はサダム・フセイン大統領の故郷ティクリートを残すのみとなった。米軍は最新鋭の装備を誇る陸軍第4歩兵師団を数日内にティクリート周辺に展開することも検討している。
米英軍は北部のキルクーク制圧後、「イラク側の組織的抵抗があるのはモスルとティクリート」(マクリスタル米統合参謀本部作戦副部長)と位置づけ、空爆を集中させていた。モスル周辺では前日までに、米特殊部隊とクルド人武装勢力が重要拠点を確保、攻撃態勢を整えていた。米軍の北部戦線兵力は、特殊部隊を中心に3000人程度で、クルド人部隊約7万人を率いる形だったが、フセイン政権崩壊で、イラク正規軍は戦意を喪失している模様だ。
残るティクリートについて、ラムズフェルド長官は「イラクの残存戦力は、ティクリートからバグダッド西方にかけての地帯に集結している」と述べ、フセイン大統領に忠実な兵力がなお抗戦する可能性を指摘した。
マクリスタル副部長は同日の記者会見で、「米陸軍第4歩兵師団がクウェートで出撃準備をほぼ完了しており、数日中に北部に展開する」と述べ、ティクリート制圧に、同師団を投入する可能性を示唆した。 首都バグダッドでは、イラク側の抵抗が散発的に起こり、現地時間の10日には中心部の北側の地域での交戦で海兵隊員1人が死亡した。開戦以来の米軍の死者は10日現在で105人、行方不明が11人、捕虜が7人となっている。
モスルの無血開城で米軍は住民の歓迎を受けたとあるが、80年前のローザンヌ会議を想起する住民にとっては複雑な心境が交差していたはずだ。そもそもローザンヌ会議はクルド人たちの住む土地に広大な油田が発見されたことに起因しており、さっそくトルコはそのモスル油田の権利を主張していた。
【ローザンヌ会議】
1922年11月〜23年7月、第一次世界大戦後、敗戦国トルコと連合国の結んだセーブル条約改訂の会議。ローザンヌ条約が締結され、トルコは列強の保護国的地位から脱却する。トルコはダーダネルスとボスポラス両海峡地帯の非武装化およびキプロス島などの割譲を承認させられたが、セーブル条約による拘束を脱し、国際的地位を確立した。セーブル条約でパレスチナは英国に、シリアはフランスの委任統治領に、エジプトは英国の保護国と定められていた。
むろんアメリカも黙ってはいない。ロックフェラー家はウォーレン・ハーディング大統領に監視員派遣を命ずると、クウェートの非合法的状況を承認する。イラクはすでにトルコ石油会社との提携協定の権利を失い、イギリス代表団はモスル油田の利権問題を意図的に曖昧にしたまま凍結する。それは明らかに米英両国がモスル油田獲得のための布石を示唆したものであった。モスル油田を巡る利権争奪戦はそれから38年後の1961年に再燃する。イラクのカーシム首相はローザンヌ会議で合意交渉が継続されていないことをあげ、クウェートをイラクの一部分であることを主張した。イギリスはそのイラクの一部分であるところのクウェートのルマニア油田を分断してブリティッシュ・ペトロリアムに譲渡していた。それを承知しながら、イギリスはクウェートに独立を与えた。つまり、クウェートは独立するような国としての形態すら成していなかったということだ。イギリスは他人の家に土足で踏み込み、部屋を占領しては勝手に独立を宣言させるということをやってのけたのだ。イギリスの属国となったクウェートが温存されてきたということ、それは云うまでもなく巨大油田の米英による利権支配にあることは明白だ。
ローザンヌ会議から80年後の、イラク戦争勃発の本当の目的もそこにある。モスル無血開城は米英両国石油メジャーの悲願でもあったことに気付くべきだ。モスル南東部に位置する巨大なキルクーク油田に彼らが食指を伸ばしていくことも含めて、近い将来、イラク全土の油田全てにおいて彼らの利権と云う刻印が押されるはずだ。
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