02/11/02 (土)
 資本主義国家ニッポン万歳・・・生きていくにはカネがかかる・・・資本主義にあっては人が人を値踏みせずにはおかない・・・名前より番号で識別され、年収が国家のデータベースに刻印される・・・富める者と貧しき者が大別され、検索すれば支配する側と支配される側に選別されて出てくる・・・一握りの権力支配、大多数の奴隷関係という構図・・・国家経済破綻で溢れる失業者の群れは、よりカネがないと生きていけない現実に直面する・・・銀行は貸し渋りしたカネを民間金融に回し、民間金融は高利で貧しき者を拘束する・・・さあ借金地獄の始まりだ・・・銀行と民間金融の腐れ縁、それに利権政治屋が繋がっている・・・国家経済破綻の尻拭いに国民の公的資金があてられ、ここに主権在民が悪用される・・・責任は主権在民たる国民の側に被せられる・・・見事な責任転換だ・・・値踏みされた国民は、喰いものになりそうなそうな人間から喰われていく・・・貧者もまた捨ておかれない・・・限りなくマイナスを増大させるための借金によって・・・・心臓がその鼓動を止めるまで執拗な搾取が繰り返される・・・死んでゆく者は幸いだ・・・もうこれ以上搾取されることはないのだから・・・誠実に生きている者にとってこの世は災いだ・・・ぐうの音も出ないほど踏みつけにされ、それでも生きるためには喰わねばならない・・・喰うためにはカネが要る・・・仕事が要る・・・それが無いのに、どうして生きていかれるというのか?・・・ここでは生物としての生存条件が全て奪われている・・・まだ私は幸せというべきか・・・少なくとも僅かな仕事がある・・・しかし・・・その仕事が僅かなことで逆に借金をせざるをえない羽目に陥っている・・・『やめちゃえば?』・・・その一言がこれほど私をして苦しませている・・・何より人間をやめたい・・・生きることをやめるほどの発作は起きない・・・今のところ、辛うじて・・・猫族が八匹、互いに暖めあって丸くなっている・・・心が邪魔だ、猫になりたい・・・仕事が手につかない・・・資本主義国家ニッポン万歳・・・13時28分現在の私の心が彷徨う
 ヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse)に「彷徨」という本があった。もう一度読みたいのだが、本の所在が分からない。思春期の青年の心を描写することでは択一の才能を発揮するヘッセのこと、もう一度彼の全作品を読み返してみたい。吉川英治の「宮本武蔵シリーズ」に、武蔵が野武士に襲われた村を救う場面がある。黒澤明監督の「七人の侍」に筋書きがソックリだ。おそらく宮本武蔵の本をベースに脚本が書かれたものだと思われる。最近メガネをかけないと活字を認識するのがつらくなった。目の見えるうちに心に残った本を再読したい。最初に本の魅力に執りつかれたのが黒岩涙香の「ああ無情」だった。小学生の頃、麻疹にかかったとき枕もとで貪るように読んだ。ザラ紙の分厚い本で、高熱で意識朦朧していて、主人公ジャンバル・ジャンが幻覚作用で強烈に心に焼きついた。母に「おまえは病気してまで本を読みたいのか?」と叱られた。のちに「ああ無情」がヴィクトル・ユゴー(Victor Hugo)の「レ・ミゼラブル」であったことを知り、これまた夢中で読んだものだ。それから「十五少年漂流記」、「クオレ」と読み進み、読書が私の空想癖を育てた。つらい時、苦しい時、耐え難い精神的苦痛にあって夢想は特効薬だ。夢がなければ、夢をつくればいい。想像力を駆使して、自分だけの理想郷を築くのだ。私は自由意志を阻害されるのを最も嫌う。国家という社会性はときにそうした自由意志を制約することがある。考えをも国家に委ねてしまうことの安易と危険は、過去に繰り返された戦争が全てを物語っている。確かヘルマン・ヘッセの「彷徨」は、夢想する青年の話であったように記憶している。ガラス細工のように透明で割れ易い思春期の心を、ヘッセは見事に描写していた。一時期、私は文学青年とのレッテルを貼られたが、人生の矛盾と残酷な場面にあって、文学は無力だとの念により読むのをやめた。次に待っていたのがノンフィクションだった。現実の重みは広瀬隆の切り口で知った。そして今、再び文学を読みたがっている。掴みどころのない心模様を、自分の内なる心に模索するための旅・・・私はなぜ生きているのか?苦悩してまで生きることへの問いかけは続く。私が生きていると実感するのは、そういう時だ。むろん喰う、寝る、摂取排泄の生物としての営みも例外ではないが・・・我が命を覆う肉体という衣を脱ぎ捨て、本当の意味で心が解放されたら、そんなとき思い出すのが文学なのだろうと・・・苦悩のどん底で必死になって構築する夢という積み木・・・この脆い夢の殿堂が崩れたら、また積み上げるだけさ。苦悩から這い上がる元気という足掛かりを得るために・・・16時10分現在
 夜、友人二人に電話する。声を聴いただけで安心する。ときに衝突もするが、次に電話するときはケロリとしている。人生論をまくし立て、歌いかつ飲んだ。中でも若くして事故死したHのことは忘れられない。悪友の最たる仲で、気がつけば一升瓶を枕に寝ていたものだ。よく喧嘩もした。泣いた、笑った、青春というにはいささか粗雑すぎたが、それだけに印象が深い。手相が分かるというマスターが彼の手をみて「あんた長生き出来ないよ」と呟くように云ったことがあった。そして、その通りになった。深夜、ビルから転落して肋骨が肺に突き刺さった。そして間もなく彼は死んだ。私がそれを知ったのは翌朝のことだった。ビルから落ちたというので、私はてっきり自殺かと勘違いした。あれはいつのことだったか?みんな夢のように歳月が流れて行く。私の手相も見てもらったっけ・・・そこそこに生きているのをみると当たっているのかどうか、実は何を言われたのか忘れた。どうでもいいような人生なのだろう、と自嘲してみる。もう一度Hに会いたい。破天荒な青春の日々を振り返って、映画をみるようにハラハラすることがある。そうしてハラハラして心配していたのは母だった。私は何という親不孝をしてしまったのか・・・その母の命日が近付いている。いろいろあった・・・分かるだろ?おう!分かる分かる・・・電話口で頷いている友に、いつまでも元気でいてほしいと心で祈った。みんな元気で・・・死んでほしくない・・・人生とはそれが許されない期限付きの映画の一幕のよう・・・ステージにスポットライトを浴びて立つロック歌手になったつもりで叫びたい。みんな元気かあ!?無理だと知ってるが、みんな死ぬなよ!愛してるぜ!死ぬほどに・・・愛さずにはいられない・・・オレの気持ちを分かってくれるかあ!?イエ〜ィ、これからオレの歌を聴いてくれ。若くして死んだ悪友に捧げる歌さ・・・
【視聴予定】・・・今日はテレビを観たくない。
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