朝目覚めたら、右足の親指が痛んだ。見たら腫れている。しまった!痛風の再発だ。工場での作業中、足に多少の痛みがあることは自覚していた。忙しくしていたので、それが痛風によるものだとは思わなかった。あれほど痛風で苦しんでおきながら、まさしく「喉もと過ぎて熱さを忘れた」のである。幸い今のところ軽くて済んでいる。「動かないから痛風になるんだ」しかり「それって、ぜいたく病だろ」云々、10人中8人までは嘲笑混じりにそんな言葉が返ってきた。同情してほしいとは思わない。ただ、痛風とはどんなものか?を知らずに嘲笑する無理解に失望している。私が痛風で動けないことを知って、これまで一緒に仕事をしてきた友人も去って行った。彼とは利害関係だけで繋がっていたのかと、電話にも出ようとしない友人に心が痛んだ。
私は一ヶ月に一度ぐらい、ご無沙汰している知人に電話することがある。私の口癖は「元気ですか?」であり、最近目立つのは「何の用だ?」という返答である。用がなければ電話されるのは迷惑なようである。不況は人間社会の経済面だけではなく、人の心まで破壊してしまったようだ。私はそれを最も心配してきた。情緒もなければ相手の立場を気遣う気配もない。ホームレスの話になると決まって「人のことなんか、どうなろうと知ったこっちゃない」といった言葉が返り、戦争の話をすれば「ひと思いに核戦争でも始まればいいんだ」と、友人や知人の口から頻繁に聞くようになった。全ては他人事なんだ。今この瞬間の自分さえ良ければ他は関係がない。それがどんな意味をもつか・・・第二次大戦に突入していった世相とあまりにも似通っていることに背筋が寒くなる思いだ。戦争が終わって人々が「我々は国に騙されていた」と口々に叫んだときに、その騙されたはずの国民にはまったく戦争責任はなかったと言い切れるのか?大戦前の世相を詳細に辿っていくとき、我々は現代の世相と間違うほどに酷似していることに愕然とするはずだ。経済苦から「他人のことなど知ったこっちゃない」に至るエゴがそれを物語っている。それが戦争間近になると、国家間の大量殺人という大事業に加担すべく国民同士が結束していくのである。
私は持病によって多くを学ばせてもらった。その間には痛みも忘れるような心優しき人にも出会えた。私にとっての出会いとは、心の出会いしか考えられない。カネも名誉や地位もこの世で確かなものだと思われているもの全てが、本当はその実体はなく普遍的なものとは成り得ないのだと・・・死んだらみんな一瞬にして消え去るものばかりだ。その消え去る虚しいものを確かなものとするところに未練が生じる。愛にして時に未練となる。愛しい人との別離に苦しむのも未練があればこそだ。死してなお心の結束固く信じて失わないのであれば、その愛は普遍的なものと成り得るのではないか?・・・きっとそうだ・・・そうした勝手な思い込みを希望に変えて、やっと私は心の均衡を保っている。
【視聴予定】
■19:30-20:00 NHK総合 クローズアップ現代
保証しますホンモノの松阪牛
■21:15-22:00 NHK総合 その時歴史が動いた
関ケ原・島津決死の敵中突破▽なぜ敵、数万の中へ?国宝文書が語る悲劇
■22:00-23:00 NHK総合 NHKニュース10
▽被害者5人の永住帰国は?▽なぜできない子供の臓器提供▽過去最高・初版230万部のあの本発売
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