町井久之氏が死去 故児玉誉士夫氏の側近
右翼の故児玉誉士夫氏の側近として知られた東亜相互企業社長の町井久之氏が14日午前5時ごろ、東京都内の病院で心不全のため死去したことが21日、関係者の話で分かった。79歳だった。葬儀・告別式は18日に東京都港区の自宅で近親者だけで行われた。在日韓国人で、本名は鄭建永。戦後、暴力団「東声会」をつくった。その後、実業界に転身し東亜相互企業の前身の「東亜友愛事業組合」を結成、日本と韓国を結ぶ関釜フェリーなどの事業を手掛けた。韓国の政界要人ともつながりが深かったほか、プロレスラー力道山(故人)と親しく、さまざまな支援をしたことでも知られる。
町井久之は1923年に東京で生まれた。幼児期に一時朝鮮に帰国、小学校卒業後再び来日、以後日本に永住する。下請け鉄工所の息子として育った町井は大学を中退すると、GHQ占領下でヤミ商売に手を出す。1948年「東声会」結成、銀座界隈では「銀座の虎」「雄牛」と呼ばれ恐れられた。その後町井はアメリカ対敵諜報部(CIC)を通じて児玉誉士夫に紹介され、反共産主義の活動をするようになる。朝鮮戦争をきっかけに在日朝鮮人社会が二分され、北を支持する「朝鮮総連」と南を支持する「民団」に分かれると、町井は迷うことなく反共産主義の立場をとる「民団」に入る。この頃から町井はKCIAと接触するようになる。1960年の頃には東声会も1500人規模に膨らみ、60年安保騒動では児玉の指揮下で動いた。やがて児玉の後押しで元総理の岸信介と懇意になり、山口組の東京進出にはその仲介役となった。日本プロレス協会の会長に児玉誉士夫が治まると、山口組の田岡が副会長となり、町井は監査役となる。1965年、警察の取締りによってやむなく東声会を解散した町井は、あらたに「東亜友愛事業組合」を結成、二年後には児玉を会長とした「東亜相互企業」をつくる。1970年、日本の下関と韓国の釜山を結ぶ関釜フェリーの管理権を手に入れている。
今騒がれている日本人拉致事件も鄭建永(チョングォンヨン)こと町井久之だったらその真相を知っていたかも知れない。日本政府や外務省は死亡を前提として再調査をするらしいが、誰もその遺体や墓を見たわけではない。仮に彼らが「生きている」ことを前提とすればどんな推理が成り立つであろうか。彼らを生かしておくには北朝鮮政府にとって甚だ危険であり、ために口封じに処刑してしまったほうが都合がいい。評論家の大半もそういった見解のようである。しかし、仮に彼らを「死んだことにして、生かしておく」としたら、北朝鮮政府にとってどのようなメリットがあるだろう。ここで想起されるのは、「他人に成りすます」という彼らを拉致した目的のことである。このまま死んだことにしてしまえば「他人に成りすます」ことがより容易になる。死亡したと信じた時点で、その家族は遺族となり、それ以上の追求はしないであろう。死亡したと信じられている日本人を北朝鮮の工作部署で再訓練し、死んだはずの日本人をスパイとして対外工作に使うというシナリオだ。他国の人間を強引に拉致してしまうぐらいの北朝鮮である。あり得ないことではあるまい。しかしながら、彼らが生きているにせよ死んだにせよ、北朝鮮政府は死亡したとする主張を曲げないはずだ。生きていることを認めてしまえば北朝鮮政府自体が崩壊しかねない。あとはひたすら謝罪して、日本から「無償資金協力」という1兆円規模になるだろうと言われているカネを引き出すだけだ。もとよりそのカネが国民の公的資金から出ることは言うまでもない。泥棒に追い銭とはこのことである。
【視聴予定】
■17:30-18:24 TBSテレビ 報道特集「日朝の重い扉」
家族26年目の衝撃と会談の裏
■21:00-21:50 NHK総合 スペシャル「米ロ接近」
対立の最前線がテロ事件で一変▽”赤い石油”を米国に輸出せよ |