政治のこと

    (目 次)

  1. 資本主義の源は…
  2. 女性の政治参加
  3. 民主開国論だって?
  4. 辛口の発言
  5. 「痛み」を伴う民主主義
  6. 建設業と平成の徳政令
  7. 国家の硬い皮膚
  8. 平成の追いかけっこ
  9. 日本庶民と「和」の社会主義
  10. このやるせなさは?
  11. 民主の風はアメリカから吹いてくる
  12. 長い永い稲作の伝統
  13. 花とプランター
  14. 日本の呪縛
  15. 茶坊主政党
  16. 浅ましき者たち
  17. インテリゲンチャ
  18. 忍びない国
  19. 夢キャンペーン
  20. 未来から観た現在の日本国
  21. 小渕前首相幽閉説
  22. 鉄槌の下らんことを!
  23. サイレント・マジョリティへ
  24. 人気投票プラス芋づる当選
  25. 2001年の参院選


資本主義の源は…

 

 ところで、民主主義の淵源はキリスト教にあるわけですが、その実家にあたるユダヤ教の「神との契約」の思想が第一義でしょうね。つまり神の足下の個人。徹底した個人主義でもあるわけで、戒律ではなく隣人愛によって世界宗教にしたのが、ナザレのイエスです。したがって、そこにはまず「神との1対1の関係における個人」というものがあります。そしてこの認識を確信から信仰にまで励起するのが「予定説」です。

 キリスト教(の伝統)からどのように近代民主主義が誕生したかは、小室直樹先生の『悪の民主主義』によれば、ジョン・ロックがキーマンだそうです。ただ、「民主主義」というとき気をつけなくてはならないのは、このイデオロギーは完成されたものではなく、つねにプロセスであるということです。では、あるべき姿としての到達点はなにか?

 ここで、人道主義や平和主義の衣を着た宗教(的)団体がしゃしゃりでてくるわけですが、民主主義の淵源を理解していない(または相容れない)団体は権力を握れば簡単にファッショ化します。 民主主義の要諦は、独裁者(僭主)の出現を防ぐことにあります。独占もです。したがって、「契約」思想同様この意味においても、近代資本主義と切っても切れない関係にあります。

 ところで、民主主義をすすめると衆愚政治になり、僭主を求める風潮になります。いまの日本もそうです。これは、近代民主主義のもつ一大欠陥ですが、われわれサイレントマジョリティは、ここのところを厳しく監視していく責務があります。

 で、あるべき姿としての民主主義の到達点とは----? 残念ながら、その答えはありません。というより、民主主義に限らず、そのようなもの(到達点)は幻想の中にしか存在しないのです。ですから、プロセスこそが真実(リアルなもの)になります。したがって、プロセスの堅持(国民がそれぞれの代表者に政治を付託するとともに、代表者たちの行為が逸脱あるいは裏切らないよう常に監視する姿勢)が、民主主義のもっとも重要なポイントになるのです。


いの>
 確かに契約という観念が我々には乏しいですね。松下先生のおっしゃる「政府信託」でしたか。 国民が政治を委ね、政府はその信託に答える。公約もそうですが、こういう契約を破る人多いです。我々庶民も政治を常に監視し、発言すべきですね。ウォルフレン氏は新聞に手紙を書くことを勧めています。新聞の声の欄を見て下さい。投書するのは子どもか老人か主婦です。大の男は何をしている(??)

 おそらく仕事が忙しかったり、職場の眼を恐れている。「日本というシステム」という無言の圧力です。日本というシステムを民主化するには、システムを恐れなくてもよいように「自由な労働力市場」の育成が重要ですね。その一部にベンチャーの育成があります。草の根資本主義ですね(^ ^)
>いの


 ぼくがベンチャーに期待するのは、新しい産業の興隆による新しい雇用システムができ上がることです。能力とやる気のある人間だけがドンドンその事業に参画し、あるいは自ら切り開いていく。ここのところを充分に保証しないと、これまでの国家管理の似非資本主義に舞い戻るだけです。アメリカ型の金融グローバリズムに打ち勝てる自信があれば別ですが、今回のマネー敗戦から見て、官主主義による「国家資本主義」経済体制の道を再び選択するのは愚かの一語でしょうね。それをやりたければ、日本がアメリカの上手を行く世界覇権主義を推し進めなくてはならない。そんなことは自殺行為ですから、ではどうするか。

 アメリカいうグローバル・スタンダードとやらを全面輸入して、より効率的なシステムを日本が国家レベルで実現すればよいのです。明治維新後にやったように、追いつき追い越せで行けばよいのです。民和主義は日本人の本性である集団主義の結果ですが、過度に「和」を重んじるためにワイルドさがなくなっている。受験勉強による蹴落としの人材選別ではなく、グローバリズムを飲み込んでひっぱっていくことのできる「人財」を数多く育成することが肝要です。

 極東の沈みゆくタイタニックは、日本海溝に沈没する前に、 自力で補修し、傾いた船体を建て直さなければなりません。そのためには、船体の重心移動、つまり国家レベルのリエンジニアリングが必要なのです。まだ、間に合うかも知れません。


目次へ       「社会時評」へ

女性の政治参加

 

 女性の政治参加ですねえ…。ぼくは日本は女性的な国だと思ってるんです。イメージとしてですが。日本の女性の多くは、K.v.Wolferenのいう「日本というシステム」をおそらく空気と同じくらい自然な環境として、日々なんの疑いもなく呼吸していると思います。日本の男性もいまだに多くが同じ感覚をもって社会生活を送っていますが、絶対数的には女性が格段に多いでしょう。残念なことと思います。

 というのも、日本の「中心の空洞化した」集団主義を生活レベルでしっかりと(盲目的に)支えているのが女性達ではないかと思うからです。女性が政治参加するのは、女性の地位向上のためには必要なことですが、彼女たちが、「日本というシステム」のゆがみそのものを問題にしていくとは思えません。あのおタカさんですら、せいぜいのところ憲法問題で終わっているように思います。ただ、世の半分は女性なのだから、彼女達の意識の持ち方がもっともっとアグレッシブになって、手続論ではなく本質論でバリバリ討論できるような人たちになれば頼もしいかぎりですね。そのためには、ぼく(たち)の考える教育方法を男女を問わず行う必要があると思います。

 ついでですが、男性的な国でかつ集団主義の国というとどこでしょう? ハイ、それはドイツです。かの国も伝統的に集団主義の国です。ヨーロッパの中でもひときわ目立っています。ゲルマン民族だからでしょうか? そこらあたりは不明ですが、集団の結束力にたいする親和性は日本と互角がそれ以上です。したがって、集団の規律を重んじ、日本と同様、制服を着用するのが好きな国民です。戦争の時も手を組みましたよね。でも、日本とドイツで基本的に違うものがあります。それは(イメージとしてですが)日本が母権社会に根差した女性的な国家、ドイツが父権社会に根差した男性的な国家という部分にあります。見方を変えれば、責任の所在とその取り方について不明瞭な国(空気支配の国)と、その反対に、明瞭にしている国(理論支配の国)との違いがあります。でも、それくらい極端な違いがあっても、集団主義特有の親和力で両者は引きあうのです。

 ところで、「中心の空洞化した集団主義」などということばを盛んに使っていますが、「中心の固まっている集団主義」の 国がドイツといえます。もちろん、イメージとしてですが。かの国の首相はほんとに国家元首ですよね。国をきちんと代表し、国政の最高責任者として政党の中の大臣のイスをたらい回しにしたりせず、可能なかぎり続投しようとする。日本の総理大臣が(他の大臣はもとより)くるくる変わるのは、ひとつには国家元首でないからでしょうかね?

 ま、いずれにしても情けないことです。ここのところが「中心が空洞化」しているゆえんなんですね。国家元首とされている天皇は国政を司っていない。このミスマッチは、憲法9条と自衛隊のミスマッチに似ています。ただ、このレベルの議論になると「非常に難しい問題」と正面から向き合うことになるので、ここではこれ以上の言及は避けます。

 しかしながら、ただふたつ言えることは、
1「四方を海に囲まれた完全な島国では中央集権的な統治形態が容易に成立し、しかも間断なく存続する」
2「軍隊は国家の硬く分厚い皮膚であり、脳髄(統治機能)や心臓(経済活動)を兼ねことはできない」
 ただし、このふたつはぼくの仮説です。例によって、なんのオーソライズもされていません(笑)
 1と2の仮説については、リストラ・倒産による失業中高年と十代半ばから後半の少年少女の遇し方についてと同様、充分考えをまとめてから掲示します。


目次へ       「社会時評」へ
 

民主開国論だって?

 

 う〜む、やはり攘夷論ではムリではないでしょうか。Global standard に向けての開国論こそ正しい途だと思います。しかも、ボヤボヤしている暇はない。それこそ、間違いなく米欧資本に日本は乗っ取られます。このまま攘夷論にしがみついていればね。余談ですが、では尊王論にあたるものはなにか? それは、官僚と一政党の長期支配からの脱却、です。つまり、「民主論」です(これについては後日詳述します)。

 現在の民主党にそのイズムがうかがわれますが、まだまだ徹底していません。行動が伴っていない。今のままで政権をとっても、自民党と見分けがつかなくなる。つまり、「民主論」が政治家の生き様の領域まで染みついていないんですね。情としがらみと権力への志向のないまぜになった集団主義から一歩も出ていない。だから期待薄です。もっと、先鋭な党を造らなくてはなりません。パワーとロジックとアクションの伴ったGlobal standardタイプの政党がここにも必要とされています。今の民主党では弱すぎます。というのも、自民党色の議員を多数含んだ寄り合い所帯にすぎないからです。この政党を「補強」すればよい、という発想は愚かすぎます。いまの日本の既存政党とは明らかに性格の違う政党を誕生させる必要があります。これについては、いずれ詳述することになるでしょう。今のところ、まだイメージの域を出ていませんので…。


いの >
 政党ですか。そうですね。国民の代表をやはり浄化しなければだめかもしれませんね。そのためにはやはり政治も生活者の立場で作り直さねねば無理かもしれません。これについては、最近僕が勉強しているマーケティングの言葉が有益かもしれません。つまりプロダクトアウトの政治からマーケットインの政治への転換です。つまり政治家も世襲やプロが多くなり、政治を使う立場で変革するのです。

 海外では普通のサラリーマンが企業に籍を置いたまま選挙に出ることが法律で保証されている国も、多いと聞きます。それだと安心して庶民感覚を持ったまま政治家になれる。今の日本の政治家は、政治家という職業が人気がない事自体が示すように、一部の人しか安心して立候補できないのです。政治家を仮に4年やって落選しても元に職場に戻れるような法律的な保証はどうもないようで、それがないと政治家になるのはいいが、落選したらただの人以下で飲まず食わずの生活では普通の生活者の感覚を持った政治家はでてこない。「先生」ではなく、さんで呼べる庶民感覚の政治家を生む制度つくりが一番かもしれません。
>いの


 まったく同感ですね。日本型(ムラ社会型)集団主義のもとで、日本のサラリーマンは企業の農奴(そのごく一部が将来、役員という名の使役者になりますが、管理職はしょせん高級農奴です)ですから、なにも分からん素人のくせに、むやみに政治に口を出すな! ということでしょう。そして、源泉徴収で税だけはしっかり取り上げる。いちばん明朗潔白な納税者を国民の代表として国会に送りこめないのは、まったくもって非・民主的なことです。

 建設業の親分がカネにものをいわせて赤絨毯を踏む構図。その子息が親の七光りで続投する構図。そしてそれを指示した多数の地元有権者たち。55年体制以後のこの「政治風土」の有する特性と功罪(罪の方が大きいかな?)について、一時代を画するエポックメーキングなものとして充分吟味してみたいものです(^ ^)


いの >
 おそらく一番サラリーマンが農奴化している業界は、建設業界あたりではないかと考えています。なにしろ企業が役所と結び付いてます。役所はケインズ経済学を盾に、つまり公共投資を名目に、建設業界に税金をつぎ込んできたのです。景気をひっぱるんなら、他に業界でもいいものをなぜか建設だった訳です。日本の風景が殺風景なのは、日本という国には政治的判断中枢がないからだと、ウオルフレンは見抜いて言ってます。

 建設省は建設省のつごうでダムや道路をつくるので、山のど真ん中に飛行機が離陸できそうな、すごい道路ができたりするのです。政治や官僚を使う側、つまり住民の側で判断する、つまりマーケットイン型の政治中枢(庶民政治家)ができれば、もっと住民サイドの税金の使用法ができます。山中道路は不要となり税金は浮きます。マーケットイン型の政治中枢をつくるには、以前言った、政治家の身分保証や国会改革と地方分権でしょうね。
>いの


 建設業が多いということは、国公営事業が多いということなんですね。彼ら業界人は、国公営事業においては、単なる請負人に過ぎませんから、その意味で農業従事者と同じく、実質的に公務員現業職です。あとは「鶏と卵」の関係で、公共工事が多いから建設業が多いのか、あるいはその逆なのか。ぼくもやはり、無駄な公共事業が多くて、それがこの業界を異常に膨らませたと思います。数字的なデータは水野隆徳氏の『世界恐慌の跫音』をお読みください。この業界は産業というより生業レベルの事業体がほとんどです。

 その点では、農業と極めて似ています。農業従事者の場合は公共事業で食べるのではなく、農水省などによるさまざまな 補助金・貸付金などによって食べています。これらの助成なしで、純粋に農産物の販売収入だけでやっているところは、ほとんどないでしょう。この辺の事情は米欧でも同じですが、日本の場合は過剰に国が関わって、事実上の国営産業にしているような気がします。始末が悪いのは、その状態で「産業としての農業の育成」とか「建設不況のてこ入れ(による景気浮揚)」などどいって、ますます「過保護」にしていることです。これでは、財政赤字も青天井というものです。けっきょくのところ、一政党の票田対策のために、建設国債に飽き足らないで赤字国債が無節操に乱発され、長期金利が上がったら、今度は「日銀引き受け」にまで手を染めて、とめどなくこの国を破壊に持ち込もうとしている。とんでもない状況です。

 じゃあ、そう言うおまえはいったい何をどうしとようと言うのだ、と言われそうですが、この問題に対しては、正直なところ、具体的な対策(是正案)はまだ見えていません。でも確かなことは、今の状態がベストではないし、ベターでもないということです。「あるべき姿」とは何か。そして、それに近づくベストの方策は何か。金融問題以上に難しいものかも知れません。


目次へ       「社会時評」へ

辛口の発言

 

 この国が民主主義国家を唱える以上は、必要に応じて、対案をもって「批判」しなければならないと思います。政治権力への辛口の発言は国民としての責務のひとつ(選挙権と同様のもの)と思いますね。で、マスコミ(久米宏のニュースセンター)の安直な報道は、脇が甘すぎたとしかいいようがないですね。まるで、あの菅さんを見るようです。たしかに当局は動いたけど、どちらかといえば、ミニ(ローカルな)社会不安を鎮めるために、辛口なマスコミ報道のいわば「敵失」に乗じて動いた点では、してやられた感じですね。結局のところ、ここで事態収拾(安心立証のための裏付け調査)に動かないと、JAという大切な票田が離反する恐れがあるわけですからね。放っておけば全国レベルでね。
 ま、そいうことからすれば、彼ら(自民党)のアキレス腱である票田を攻めれば、つまり票田周りの施策の不首尾を攻めれば、そうとうの揺さぶりをかけることができることを、今回の事件は示してくれました。それが収穫と言えばいえるでしょう。ちなみに、ここでいう票田周りとは、農林漁業・建設業・中小企業・中小商店の日々の経済活動と地域生活や自然環境のまでも含めた改善要求をさします。これが「自民党」の存立基盤でもあるわけです。ただし、直接的にはそれらの業界の団体や銀行、大手ゼネコンなどがこの党を(資金的に)支えています。しかし、やはり上記の草の根票が離反すれば長くはもたないでしょう。そういう意味で、庶民はもっともっとしたたかになってもらいたいですね。それが民主主義が根づいていくプロセスだと思いますよ。つまりこのことは、庶民が「国民」になっていくことなんですね。


目次へ       「社会時評」へ

 「痛み」を伴う民主主義

 

  ところで、いま日本では、アングロサクソン攘夷論が盛んにアジられていますが、これなどは、和のイデオロギーに依拠した日本型集団主義の信奉者たちの発言です。主に中年以上の保守的な脳髄の人たちですが、ま、日本をここまでボロボロにした国家管理者たちのスポークスマンですね。日本はいま現に、アングロサクソンの代表である アメリカに、経済だけでなく政治も牛耳られている(事実上支配されている)わけですから、その事実を覆い隠すような攘夷論は、庶民にとって有害なものです。庶民が「国民」になる機会を殺いでいます。

 「国民」は国家管理者の中核をなす「政府」の行為をつねに監視し、これが暴走(または迷走)しないように あらゆる機会と手段を通じて牽制する義務があります。納税の義務だけではないんですよね。この狭い極東の弓なりの島国は、ごくごく一部の国家管理者たちのためにあるのではなく、また、今日と明日のメシが食えればいいやい!という庶民のためにあるのでもない。やっぱり、国家と対峙し、自らの「平和」な生活のためにこれを制御することを義務の一つとする国民のためにあるんですね。当たり前といえば当たり前すぎることなんですが。いまの日本で「国民」なんて言うと、スカスカの憲法か永田町の権力亡者どもの業界用語にしかなっていなくて、まことにもって残念なことです。現代の開国論はアメリカの国旗入りのTシャツを着ることじゃなくて、自由民権運動に見られるような「国民」になることなんですね。国家管理者たちはそれを嫌っているから、 このグローバルな時代に、相も変わらず攘夷論をふりかざしているんです。じつに困ったものです。

 市民オンブズマンですか、大いに結構です。どんどんやるべきですね。ついでに役人の数も半分近くまで減らすべきでしょうね。政府が巨大組織になりすぎているから、あらゆる面で「国民」を圧迫している。庶民がいつまでも庶民のままでいるのが、Wolferenのいう「不幸」な状態ですからね。年がら年中、庶民感覚のぬるま湯のような生活は、「国民」を怠惰にするだけで、それこそ国家管理者たちの思うつぼです。国民ならこの国を彼ら政治屋・財界人・官僚のほしいままにさせてはなりません。彼らの役割を認めつつも、国民として彼らに圧力を加えなくてはならない。そして、自らも憲法の問題、自国の防衛の問題、公正な税制の問題など、庶民だから回避できた「煩わしい問題」を正面から見据えて、 最良の「現実的」な選択を採らなくてはならない。これからの教育のあり方にしてもそうです。国民となって、言うべきことは言い、注文すべきことは注文し、そして、これらの諸問題についても、「痛み=負荷」とともに、国民の責務として引き受けなければならない。

 と、例によって大言壮語していますが、 これがぼくのいう「民主開国論」です。その神髄は、英米のアングロサクソン文化の中にビルトインされているものです。もちろん、キリスト教文化(あるいはユダヤ教文化?)が背景にあるわけですが、日本は仏教国(あるいは日本教徒の国)だからそんなのいらない! というまえに、ニアリー・ベストである彼らのデモクラシーを日本は今度こそ自分の志をもって再輸入すべきでしょう。明治維新という過去の大偉業をそのまま現代日本にもちこむことは、時代錯誤としかいいようがない。日本国民がみな当時の下級武士のエトス(死を覚悟して決然と生きる)をもったら、危険きわまりないとぼくは思う。一部の真のエリーがそれを持てばよいという意見もある。それはおそらく正解だろう。だが、戦後民主主義の砂漠のなかでそんな教育をしたら、「国民」ではなくふたたび「臣民」が蘇生するだろう。そうなるとどうなるか。国民国家の硬い皮膚として自衛隊を軍隊化したまではよかったが、またもや戦争屋の集団となって暴走したがるだろう。そして、必ずや暴走する。

 日本国の人々は「国民」にならなければならない。そして、日本が国民国家であろうとするなら、英米同様、一定の負荷(痛み=緊張=責務)を負いながら「幸福」を手元に引き寄せていなければならない。思いやり予算を10兆円も払っての防衛論議もないだろう。こういう不毛な議論を見るにつけ、いつまでも3S政策(スポーツ・セックス・スクリーン)に躍らされた庶民であってはならないと、声を大にして叫びたい気分です。ぼくが金融問題でいろいろ言っているのも、その失敗の淵源も結局、ここに行き着くからなんですね。戦後民主主義の実験は社会主義の実験同様「失敗」であったわけですから、 現在の隠れた支配体制である官主民和主義から、痛みを自覚しつつ成熟した政治論議のなかでパワーバランスを保つことのできる国民国家型民主主義へと早く脱皮してほしいものです。

 なお、「痛み」の具体的な内容(国家デフォルト[破産]、防衛問題、憲法改正、教育改革、公平税制など)については、いずれ項目別に明記しますね。


目次へ       「社会時評」へ

建設業と平成の徳政令

 

 建設業の特徴は、確かに工作物を生産はするが、それが公共事業の場合、商品の生産と違ってそれ自体の流通は生じない。造ってそれでおしまいである。これは、ほんらい資本主義経済の対象とはならない(前資本主義的な)生産行為である。しかし、この分野の経済活動のボリュームが大きく無視できないため、経済学でも「公共部門」という名で一大分野を占めている。しかし、このような公共事業で生きている業種が全国津々浦々にはばひろく、しかも政治的影響力をもって存在している。利権漁りに終始する土建政治屋の横行や談合による競争入札の形骸化に見られるように、これらの存在が政治における民主主義と経済における資本主義のそれぞれの健全な発達を妨げるものとなっている。また、それだけでなく、不要な公共工事による国土の破壊現象が進んでいることも、この業界の温存と密接不可分な問題である。

 そして、建設業と向こうを張るものに農協がある。農業はこれまでそしてこれからも国の基幹産業の最たるものであるが、農業が国策的にあたかも自立した産業(第1次産業!)であるかのように扱われてきたところに、問題の根が潜んでいる。農業者たちはこの業界の巨大でかつ唯一のピラミッド型統制機構である(全農を頂点とした)農協組織の中に封じ込まれ(あるいは保護され?)ている。また、米価は依然として食管法による統制価格で律され(あるいは保護され?)ている。加えて、構造改善事業の莫大な補助金が、受益者負担とはいえ、昭和30年代から営々と投入されてきた事実を考えると、これらの産業界の労働者(農家=自営業者?)たちは、国の根幹事業である「農業」の現業労働者にほかならない。つまり、実質的に国家公務員現業職なのである。農業問題を考えるとき、この視点を外して正確に捉えることはできない。

 このように、建設業界と農業界はそれぞれ独特の問題をはらんでいる。これからのこの国の進路を考えるとき、わたしたちは一度徹底的にこの2業界の今後の有りようを考え直さなくてはならない。その際に肝要なのは、この2業界が、「自由民主党」という名の和(=輪)の精神と権力闘争の好きな政党による長期政権を支える大票田として存在し続けていること。このことを念頭において、民主主義と資本主義のシステムにかなったこの国の展望について考えを巡らさなくてはならない。

 ここで、上記の二分野のうち、農業分野に対する腹案(のひとつ)を簡単に付記しておこう。
農水省は最近、中山間地域の農業者に所得保障を行うことを決めたが、これなどはまさに農業従事者が国家公務員現業職であることを物語っている。しかし、彼らはそもそも公務員ではないのだから、このような安直な所得保障は行うべきではない。中山間地の荒廃は、基本的に「上手に山(雑木林)にもどす」ことを基本姿勢として、なお保全すべき所を市町村において特定し、そのうえでリストラ・倒産失業中高年を対象とした働き手を募り、彼らの力をかりて維持保全に努めればよい。そして、国および地方公共団体はこのような人々にこそ見返りとしての所得保障を行うべきである。

 なお、建設業の分野における効果的な再編のは、まだ模索中である。ただ、以下の構図だけは払拭しなければならない。これは自民党政権の基盤である銀行とゼネコンを救済するのための「悪のプログラム」である。ところで、農協関係はすでに徳政令を受けている。

 赤字国債の増加→国民の金融資産が担保
   
↑↓
 公的資金注入→銀行による不良債権放棄→ゼネコンへの徳政令(平成の徳政令
 →自民党の票田保守→50万の中小建設業者の丸抱え→資本主義のメルトダウン

 このツケは、近い将来われわれ庶民が払わされることになる。その詳細については、太田晴雄氏の『預金封鎖』(オーエス出版社)をご覧いただきたい。

 ところで、最近思うのは、自衛隊と国土保全、あるいは自衛隊本来の「国防」業務と、建設業関係余剰人員のリンクの仕方に妙案がありそうだ、ということである。しかし、そのためには、憲法第9条の改正が必要となるし、さらにその前に、日本人が庶民から「国民」に成熟していなければならないという、気の遠くなるような前提が必要とされる。これについては、ヤポンの建国絡みで述べたい。


目次へ       「社会時評」へ

国家の硬い皮膚

 

いの>
 このところ官僚批判を続けていましたが、言いたいことは官僚ばかりが悪いのではないということです。小生の言いたい事の中心は、官僚中心の「国の仕組み」を改良しようということなのです(^ ^) それともう一つ確認したかったのは、良い社会の条件に、透明性の高さを上げていただきたいということです。 また情報は、公開することで、それに反応する人が出てきて相乗作用があります。その意味でも社会的メリットがあると思います。 小生の言いたい事の中心は、官僚中心の「国の仕組み」を改良しようということなのです(^ ^) 物事が闇から闇に葬られたり、いきなり深夜に物事が決まるようにはしてほしくないです。議論を公の場、国会中心に尽くしていくのが良い社会の条件だと信じています。

 最近アカウンタビリティとか知る権利という言葉をよく聞きますが、「知る権利」については、もう20年も前から日本のある先生の書かれた本で知っていました。しかしながら、オンブズマンが出てきたつい最近まで、ぜんぜん情報公開は進んでいなかったのです。情報公開は大事です。これはKJ法とも関係しますが、相手に説明するためには、自分のこと(組織も) を理解するために、自分に自問自答しないといけない。組織だったら、ここで必ず意見交換が行われるのです。ですから情報公開は、役所以外の人にとってメリットがあるのみならず、お役所の人達にとっても、組織の活性化に役立つのではないかと考えています。情報交換の良い点は、隠すことによるストレスから解放される点もメリットですが、相手に説明することで、内容が整理される点も良い点です。

 最近、経営学でも注目されている考えは、知識の共有という考えです。つまりコンピュータを接続し、ネットワークを作ることで、知識やノウハウの共有ができるというものです。中小企業ではコンピュータを単体として使用する考えが強いようですが、大企業ほど情報の共有化によるネットワークづくりを目的として、コンピュータを使用する傾向があるようです。国家・官僚組織としての情報の共有化もまだまだのようです。これを官僚組織、そうですね、教育機関での情報の共有化のツールとして、学校に配置するのも名案かもしれません。外国船の騒ぎで、海上保安庁、防衛庁という役所についての議論がこれから白熱しそうですが、こういう役所には情報公開はなじみませんかね?
> 景


 なぜNHKが珍しくも、自らスクープ的に派手にしつこく報道し続けたか。小学生にも分かるカラクリですが、しかし、今回の、北朝鮮のスパイ船であろう2隻の漁船の領海侵犯事件は別に珍しいことではなく、これまでにも類似の事件が多数あったと思われます。しかし、このような「現実」をいままで素知らぬふりで押し隠してきた政府とマスコミは、これを機に、日本の置かれている危うい状況を正確にそして冷徹に庶民の耳目に届けなくてはなりません。アメリカとの金融戦争(敗者復活を期してこれからも延々と続く)についても然りです。

 日本国の庶民は「国民」としての 気構えはできていないけれども、バカではない(知能が低くはない(^ ^;))ので、もはや政治屋や宦官達が 平気で庶民を欺く(主として自己保身のために。あるいは、私利私欲のために!)ことをよく知っています。 日本国の庶民が「国民」なら、このような瑣末な追いかけごっこは、ほんとうのところ、とうの昔にあまねく知っていなければならないことなのです。「周辺事態」の解釈などで防衛指針の決定が紛糾しているので、実はこんな「現実」がございます、と NHKを使ってやおら知らしめるのは、あまりに庶民を愚ろうした大衆操作ですね。

 政府は「日本国民」の平和な生活をほんとうに確保したいと望むのであれば、国民にこの国の置かれている現状を可能なかぎり公開し、その理解と協力を求めなければなりません。そして、その際に起こる激しい責任追及から逃れてはなりません。 責任をとれる立場にあるからこそ「権力」もゆだねてあるわけです。「権力」だけをいつまでも握って、責任逃れに汲々とする今の与党の政治屋たち(政治家とはとても呼べない!)の有り様は、情けなさを通り越してほとんど「国賊」に近いとさえいえます。ついでにいうと、彼らが政権を担当している間は、自衛隊の軍隊化によるシビリアン・コントロールは全く望めないので、国民は自衛隊という未熟な国家の皮膚を晒したまま、毎夜、日本海の不安を抱いて寝なければなりません。

 ところで、ヤポンにはすでに立派な軍隊があります。「国防軍」です。自衛隊みたいな戦闘能力の低いものではありません(^ ^)  というわけで、自衛隊と情報開示の件ですが、ペンタゴンとアメリカ国民の関係を想起すれば、答えはお分かりでしょう。「知る権利は」事実上及びようがないことが「現実」というもの。しかし、軍隊はCivilian Controlによって統御されるべき「国家の硬い皮膚」以上のものではありません。したがって、国民国家であれば、国民の代表として国家経営を委ねられた責任者(政府を構成する「政治家」)たちの責任を追及する形で、影響力を行使することはできます。 その点では、先に述べた「警察機構」も同様の関係にあるといえます。


目次へ       「社会時評」へ

平成の追いかけっこ

 

いの >
 朝日新聞の夕刊にも逃走した船は日本政府と米国から 意図的に出した船だというジョークのような。本当かなと考えてしまう様な記事があったという話しです。 昭和60年ころにも、日向灘沖で同様の事件があって、日本はつかまえることができなかったようですね。 今回は昨年のノドンやテポドン騒ぎがあって、アメリカも衛星とミサイルの区別がつかず、あのあたりから、日本も軍事的にしっかりせねばという気になってきたようです。 景先生の国防軍構想が現実味を帯びてきた事件でした。やはり戦争には反対ですが、自分の国の防衛をもっとしっかり議論しないといけませんね。
> 景 


 「やらせ」とは思いませんが、これまでのスタンスだと極秘裏に処理していた事柄が、堂々と「マスコミの報道」という 形で庶民の耳目に知らしめた。ま、あえて報道させたということですね。もちろん、防衛ガイドラインの協議を前に転ばす狙いがあってのことですね。

 ぼくがここで言いたいのは、政府はすべからくこのような事実は「国民」に知らせるべきであって、政府の都合に任せて恣意的に出したり隠したりをすべきでない、ということです。 第一、海上保安庁の追跡は報道せず、自衛隊に(たまたま?)交替したから報道したなんていうのは、まったく 理由になりませんね。しょっちゅう追いかけている事実こそ常日ごろから大きく報道し、領海侵犯に対する 厳重な軍事的対抗措置を取っておかなくてはならないのです。

 これは基本的には危機管理体制の問題です。 それをはじめて自衛隊が「実戦」を行ったという事実をことさらに強調して、いきなりあのNHKに報道させるのは、 見え透いた大衆操作以外のなにものでもないわけですね。かくほどまでに、おとなしい日本庶民は自国の政府になめられている、というわけです。日本国民なら、そのことをしかと肝に銘じるべきでしょう。 日本「国民」でありたいと欲するなら----というべきでしょうか。

 さて、またまた吠えちゃいましたが、いずれにせよ、自分の国は自分で守る決意をもって、守り抜くことが 「国民」の当然の権利であり義務でもあります。そのため、われわれ中高年も基礎的な戦闘訓練とロジスティックの本格的な実地訓練を受けなくてはならないでしょう。40代後半から50代までの男性ですね。いのさん、ヤポンの国民としておたがい老けた体にむち打って頑張りましょう(笑)

 仮想敵国は「ポテドン」。 軍事独裁政権の支配する飢餓と処刑の全体主義国家です(^ ^:) かれらは侮りがたい力を持っています。国内ロジスティックの基地建設と敵国上陸後の海上ロジスティックのシミュレーションがぼくたちの仕事です。 がんばったら、ひょっとして優先介護権が御褒美でもらえるかも知れません(笑) でも、みんながもらえば、 果たして「優先的」に介護が受けられるのかは、もっとも関心のあるところです(^ ^;;

 で、ヤポンは決して好戦的な国ではないのですが、軍隊は「必要不可欠なもの」として、国家の硬い皮膚として、 そして同時に、常に「国民」の代表によって制御されるものとして、その地位を確保しています。ついでながら、「硬い皮膚」は、角という武器でもあります。使用の際は充分気をつけましょう(^_^) 硬い皮膚の話が長くなりましたが、これは国家の一要素に過ぎないので、個人的にはさほど興味はありません。 もっとも興味あるのは、やはり「心臓そして循環器系」であるところの経済活動(財政を含む)です。いのさんは「脳髄」であるところの統治組織とそのシステム周りですかね。ヤポンではここのところがまだ イメージとして仕上がっていないので、よろしくです。


いの >
 心臓に循環器系は経済の問題、中枢神経は国会の仕組みと考えてよろしいですね。国会の改革については、 言いたいことが山とあります。これについては、自分の考えをまとめて慎重にアウトプットしたいという気分です。 これはうかつにしゃべると右翼に襲われそうなので(笑) 日本には思想なき右翼というのがあって、ある種の用語に、PCの検索機能のように過剰に反応する人たちがいます。こういうタブーの多い国は「よくない社会」ですね。これは先日途中で調子を崩してやめた「アニミズム」発言と関係大有りです。というかそのものです。これをしゃべりだすと宗教問題、と言っても国家神道の問題に行き当たります。
> 景 
 右翼ですか。自衛隊を軍隊に。象徴天皇制の堅持。日の丸は好き。君が代(の歌詞内容)は合憲。とこれまで いってきたぼくは、「右翼」のようでもありますが違います(笑) 庶民から「国民」へ。かなり辛口の(敵意さえこもった?)政府・官僚・財界(人)の国家管理者批判。これなどは「左翼」のようでも違います(笑)

 ぼくはどちらの陣営にも批判的です。ぼくには「あるべき国家・国民・政府・経済システム」に ついてのイメージがあるので、現況を批判し、いまある知識と能力で可能なかぎりの対案を示し、そして、「いのさんとの対話」を深めることによって(^_^)、そのイメージを明確な体系にまで結晶させたい、と思う陣営です(笑) ま、今のところ、後から遅れてノコノコついていってる状態なので、「尾翼」くらいにしておきましょうか(爆) 右尾翼か左尾翼かの判断は、翼自体が小さいのであんまり意味がありません(笑)

 しかし、「明確な体系化」は 「現実」というおかれた状況に対して「あるべき姿」に近接するよう促すツールまでをも備えた実践性の高い (ただの絵空事ではない)ものとして創り上げたい! などと、目標だけは高く設定しています(照笑)

 またまた大言壮語しちゃいました(笑) で、「政治のアニミズム」と国家神道の関係については、そのふたつのキーワードの組み合わせだけで、 なんとなくイメージが浮かんできます。 ぼくの「体系化」の試みも、まだまだ6歳の子供のように幼稚で他愛ない状態なので、 臆面もなくBBSやHPで再掲できるんですが、これが具体的な変革ツールにまで煮詰まってきたら、 HPでの公開は概要に留めておいて、詳しくは関心ある人に市民出版物として頒布すべきだと思っています。 でもまあ、はたしてそこまで行けるか、先のことは分からないのが正直なところです(^ ^;)


目次へ       「社会時評」へ

日本庶民と「和」の社会主義

 

 失業者が300万人を超えた! という報道が、新聞の第一面で報道されていますが、ぼくはこの数字はまだほんとうの危機を物語っていないのではないかと思っています。というのも、完全失業者が300万人にもなったなら、日本のあちこちで相当の社会不安が生じると思うのですが、大規模なストや扇情的なデモが起こったという話は聞きません。どこかの大企業の課長さんが社長の面前で割腹自殺したという事件はありましたが、これは失業ではなく左遷人事?に対する恨みでしたよね。

 いずれにせよ、労働省がわざわざ失業者数を水増し発表する理由は見当たらないし、日本の場合、潜在失業者も合わせるともっと数は多いわけですから、こんなに平穏なのはちょっと不気味なくらいです。公式発表が300万人超というわけですから、実際にはそれ以上いることは間違いないでしょうが、それでもこんなに「平穏」なのは、あの阪神大震災の時の被災者の方々の保った平穏さとおなじものでしょうか。

 この「平穏」な状況はおそらく、とりあえず雇用保険で食いつないで、それが切れても再就職先が見つからないなら生活保護があるから飢え死にすることはない。憲法で保障している「健康で文化的な最低限度の生活の保障」の基礎が生活保護なわけですが、これが、安全弁として機能しているということでしょうかねえ。それにしてもミステリーです。

 いまの失業者の増加は、日本式終身雇用制の破綻による余剰労働力(組織内潜在失業者予備軍)の日本式不完全労働市場への排出というベクトルが生んだ労働力滞留現象と思われますが、それにしても、ある新聞が「にぎやかな職安」という見出しで紹介するくらいに、厳しいけれどどこか緊迫感がうすい感じがある。これはいったいどういうことなんだ?----とぼくなんかは素朴に思うわけです。将来への閉塞感を感じながらも無収入の生活に対する緊迫感・窮乏感がいまひとつ希薄に感じられるなのはなぜか。「和」の社会主義(=中心の空洞化した集団主義国家=フレンドリー・ファシズム)の勝利か!?

 思うに、巷にモノ(商品)が溢れかえっているという目に見える「現実」が、庶民の心にどこかしら「安心感」を抱かせているからなんでしょうね。たくさんのモノが、売れもしないのに街中にたくさん陳列してある。懐に不安を感じているわれわれ庶民は、買いもしないのに、その光景を目の当たりにして、まだまだ日本は大丈夫、という「幻想」をいだている。みんなが同じようにいだいているから、その「幻想」は「現実」であるかのように人びとの意識の中心にドッカリと根をおろす。たぶんいまの日本庶民は、こんな幻想の絹糸を幾重にも重ねた繭の中を生きているのでしょう。

 ところで、この共同幻想が崩れるとき(庶民が心底慌てるとき)は、モノそのものが枯渇するときです。第1次オイルショック直後の「トイレット・ペーパー騒ぎ」は、記憶の淵に生々しく残っていますが、食料をはじめとして、日々の生活に直接支障をきたすモノ不足の状態に見舞われたら、瞬時にそして広範囲にわたってパニックが生じます。でも、いまの日本は幸か不幸かそういう状態にはありません。

 日本国はゼネコン国家として、ゼネコン企業同様とうに破産しているのですが、国家破産の状態は、即物的に目に見えるものではないから、「国民」になれなかった日本庶民にはそれがまったく見えない。だから、日本庶民にはそれがどんなに恐ろしいことか、実感できないでいるし、だれもかれもノホホンとしている。しかも、これから先、すこしずつジワリジワリとモノ不足になっていく(カネはふんだんに出回っているが限りなく紙屑になっていく)ときは、そのことについて政府筋が巧みに耐乏生活の宣伝を行うであろうから、庶民は「しかたない、しかたない」とボヤキながら、哀れにも貧しさへの下降を受容していく。

 これが、日本庶民の宿命的な行動パターンです。中心の空洞化した集団主義のエトスからなる国家に身も心も委ね、自ら「国民」になる努力をしてこなかった日本庶民たちが、またしても無責任な国家管理者たちの思うツボにはまって、その踏み台として組み敷かれたまま、これから先も逃れようもなくただ喘ぐだけの生活の姿が露わになるだけです。これは実に残念なことですが、これこそが紛うことない「現実」です。しかも、庶民は「現実」がどんなに堅固に見えてもじつは「コンニャク」よりも柔らかいものであることすら忘れています。かえずがえすも残念なことです。これは、戦後の「反・国民教育」の成果であるともいえましょう。   

 そこで、1999年2月に続き、同年4月の日本社会と庶民に、滝廉太郎のピアノ曲『憾み』をふたたび捧げます。

 さて日本庶民は、たぶんそのほとんどが気づいていないと思いますが、いま国内で、ものすごい勢いで貧富の差が広がりつつあります。優勝劣敗の国アメリカでこの傾向がはげしいと言われていますが、実は日本でも、国家管理者群を筆頭とした国民のわずか数%の「持っている者」とそれ以外の大多数の「持たない者」、つまりほんとの富裕層と、以前の中流意識階層でいま生活防衛に励んでいる新貧困層とが、急速にしかも確然と所得差を開きながら生成されつつあるということです。

 それは直接的には、長期にわたる超低金利政策と消費税等の間接税アップ、そして公共料金(民営化した交通・通信・エネルギー関連の使用料金を含む)のアップによって、確実に進行しています。わたしたち庶民の懐は、二重の所得減少を強いられており、新貧困層の形成に向けて敷かれたレールの上を音もなくひた走っているのです。

 この状況は大局的には、現政府の方針のなかに如実に見て取れます。金融業界と建設業界の大掃除というやるべきことをやらないで、ただやみくもに発行している無責任きわまりない赤字国債と、それに基づくゼネコン国家「日本」としての予算編成。そして「供給者の論理」による公共投資という時代遅れの機能不全な財政施策。これらのツケは、「子どもたちの世代が払う」まえに、数年後にわれわれ庶民が生活の質を極端に落としながら、向こう十数年間の貧窮生活のなかで償わされることになるのです。


目次へ       「社会時評」へ

このやるせなさは?

 

 さて、長々と開陳しましたが、社会人への大学解放の件はまだあまり深く考えていません。ぼくは基本的に、 大学とは、専門的な研究とその教育を行う場であって、会社員や公務員などのサラリーマン養成のための機関ではないと考えますので、 現行の「大学」と名のつくものは不要と考えています。あえて「大学」といいたいのであれば「国民大学」と呼称すべきでしょう。 そして、いま構想されている「大学院大学」が、本来の(大学の自治権を認められた)大学として、最高度の専門的な研究と その成果を教育する教授養成の場として、政治的経済的思惑から独立した形で、建設されねばならないと思います。したがって、現行の数ある大学は、「○○国民大学」の名のもとに、実学的な高度の専門技術の習得を前提とした「高等」専門学校の役割で充分であり、その範疇で引き続き 少子化社会での学生の獲得に身をやつしておれば充分だと思います。その結果、(現行の)国公立大学も含め、 潰れる「大学」も出てくるでしょうが、これらは「教育産業」の落とし子である以上、当然のことでしょう。 さて、このような大学観からすれば、社会人の(現行制度での)大学での勉学はなにか意義があるのかな、と疑問に思います。専門学校で 1年ほどスキルを磨いたほうが、よほど実効性があるのではないかと思います。要するにぼくは、現行大学不要論者なんです(笑)


いの >
 景さんのお話しを聴いていると、段々やるせない気分になってきました。ところで、メールを送ったつもりですが、届いておりますか。ただの新聞記事ですから、 「たわけもの」と叱られそうです。(^^;宜しくご査収下さい。さて、う〜ん。アメリカの戦略…。貧富の差の激しくなっていく国、お金がただの紙切れになっていく国、これはうんと経済の勉強をせねばなりません。 時間をかけておっしゃる内容を咀嚼していきたいと思います。最近アメリカ発の販売の理論なんかをみています。 販売ですから、企業としての戦略ですが、ほとんどモノを売る理論は、アメリカの独壇場です。日本はといえば、 これは今まで私の勉強不足だった分野で、かなりの推測が入りますが、日本語での説明が少ないところを ほとんど「戦術」の部分に安住していたのではないでしょうか。たしかにアメリカは、戦術でなく、戦略を理論、実践ともに蓄積している国という印象を、販売の勉強からも持っています。日本の販売の「神様」は、自分の好き勝手な言葉でじゃべります。これは売る技術「セリング」の世界の言い回しであって、普遍性のある言葉ではしゃべれない。いわく「まつげを読め」とか「断わられた時から販売は始まる」等、これはまるで、戦前の日本軍と精神性において同類ですね。 おそらく日本という島国で、販売一つ取っても、米と戦略性において管理の差があると言えるのではないでしょうか。

 それと米国は、お金の活用の仕方について、その仕組みや、企業の自由度においてかなりの差があるようです。 日本は、財の運用について、証券や銀行、保険を保護すべく垣根を設けていました。それこそ「護送船団」 方式の最たるものが銀行でしたので、金融部門は世界的な競争に鍛えられていないという点も、問題としてあるのではないでしょうか。現状の不況の理由の一番は、金融の問題と思います。人体で言えば、全身を駆け巡る血液(資金)がめぐらないことから不況が始まったと理解しています。それと年金の破綻による退職後の不安、これが消費マインドの面で大きなブレーキになっています。企業がリストラとかで、企業人の不安は増えています。給料は安くなるし、ローンはそのままなので、主婦も働きに出ようかという気持ちもあって、失業率も高まっているのかもしれません。
> 景 


 すいません、やるせない気持ちにさせて。おそらくその「感じ」は、ぼくがウォルフレン氏の著作を読むときに感じた やるせなさ(ほとんど絶望感に近いあの感じ…)と同じものではないかと推察します。ある人が言っていましたが、 「真実とは往々にして目をそむけたくなるようなものだ」----人間がつくりあげる「現実」というスクリーンは 真実を押し隠すためのものではないか、とすら思ってしまいます。でも、ぼくたちはこの「やるせなさ」に気づいたなら、 つまり、真実の一端に触れたなら、そのときすでに、そこから出発できる準備が調ったともいえるのです。 つまり、その真実(真)を偽にする新たなモード(定義域=この場合は官主民和主義つまり「和」の社会主義に訣別して 国民会議を基礎とした連邦制の国民統治主義に転換すること)に移行すればよいのです。そうすれば、おそらくこの種の「やるせなさ」は解消されるでしょう。いやむしろ、解消するために、その新しい舵をわれわれ「国民」が握るのです。 あの平易でかつ清明な日本国憲法前文を読み返せば分かることですが、わが国の現在の「和の社会主義」体制は憲法違反の状態にあります。 「主権」とはsovereign power、つまり統治権です。この統治権が「国民に存することを宣言」しているわけですが、 「現実」は「和の社会主義」つまりFriendly fascism(これについては後日詳述します)です。

 さらに問題なのは、 「人類普遍の原理」つまり「国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、 その福利は国民がこれを享受する。」という原理が、このモードでは真実となっていない(偽である)ということです。 この証明については、小室先生やK.v.Wolferen、宮本政於氏などの英明の士により立証済みですが、この「偽」であることが、 先述の「やるせなさ」の震源地なのです。ぼくは憲法改正を標榜する者ですが、憲法前文のこの2つの宣言(国民統治権と人類普遍の原理)は 残さなくてはなりません。そして、「主権」ということばは「国会」どうよう曖昧表現なので、前者を「統治権」 後者を「国民会議」と表記する必要があります。敗戦時の官僚らの巧妙な「翻訳」によって曖昧にされたまま いつまでも放置するわけにはいきません。the DietはCongressがもっとも望ましい。少なくともParliamentでなくてはならない。 前者は連邦制における国民議会、後者は単一国家制による国民議会(要するに米と英)なわけですが、わが国のような 単なるnational assemblyとしてのthe Diet(それも神聖ローマ帝国時代の!)では、戦後の新憲法下では、 烏合の衆と化すのは当然の帰結でしょうね。新憲法公布の手続き上、あえて戦前の帝国憲法を承継したスタイルを取ったから、 こんな妙ちくりんな事になる。いやはや、官僚のやることは今も昔もちっとも変わりません。困ったものです。

 あ、そうそう、メールいただきました。PFI---ひところ騒がれた「民活」(公共事業への民間活力導入)の平成不況版でしょうかね。 現行日本国=ゼネコン国家では、イギリスに端を発するPFIも「日本の実情に合ったやり方」というわけのわからぬ 方便でねじ曲げられるのは必至でしょう。というのも、日本国はまだまだ「やるせない」国なので、庶民がひとたび「しかたない」と 思えば、ドンドン無軌道に曲がっていっちゃう国なんですね。PFIの前提は小さな政府(小さな地方行政機関も含む)なはずですが、 赤字国債を庶民一人頭数百万円の負担分も乱発しておいて、企業の私財投入による公共施設管理委託もないでしょう(笑) すいませんね。またまたやるせなくなるようなことを言って…。でも、ぼくを恨まないでください(^_^;) やるせなくさせるのは決してぼくではありません(憫笑) もちろんだれだか分かりますよね。このやるせなさを もっとキャッチフレーズ的に言えば、「遣る瀬ない」を「許せない!」に転換できるかどうかが、国民力というものでしょう。


目次へ       「社会時評」へ

民主の風はアメリカから吹いてくる

 

 ところで、(議員立法とはいえ)防衛庁筋が周辺事態法をつくったもんだから、警察庁もライバル意識を燃やして、あいつらがあんなドデカイのをブチあげるんだったら、おれたちも負けていらねえ。いまなら不況で「庶民」もパワーがないから、国会通すんだったらいまのうち。 この際、「公明」正大とうぬぼれる茶坊主どもを取り込んで、いけいけドンドン。というのが、この時期に通信傍受法を提出した舞台裏でしょう。せいぜいこの程度のもんです。(もちろん、怪しげな審議会とかに意見を出させて、1年以上も前から準備していたのは周知のことではありますが。)

 どうも、自自公連合は、ガイドライン関連法案がわりあいあっさりと通ってしまったことに、相当の自信を持ったようですね。 国防問題(国民生活の国際社会での安全の確保)と組織犯罪対策(国民生活の内国的な安寧の維持)とは、同じ憲法抵触関連法案でも基本的に異なるものですが、自自公連合はこの際おかまいなしに、違憲法案でも今なら通る!と、鼻息が荒いです。このままですと、この勢いに乗じて、連中はますます日本国を公安監視のタコツボ国家に造り変えていくでしょう。

 そして、庶民にとっては悪夢である財政赤字の国民負担を、電光石火のうちに実行するでしょう。それは、国民総背番号制が敷かれた直後です。このナンバリングをもとに、増税につぐ増税を行って、富裕層を中心に効率良く課税し、財政赤字を最終的にチャラにしようとします。もちろん、その前段として、「預金封鎖+新円切替え+デノミ」を実施します。 そして、この荒療治をやるのが、小沢一郎とその取り巻き、それを助けるのが、権力亡者の自民党と…公明党という茶坊主政党でしょう。

 日本はその後も、表面はつつましく清貧で穏やかな、しかしその実、出口の閉ざされた巾着型のタコツボのような国に、ますます変貌していきます。現在の国家管理者たちの高笑いが目に浮かぶようです。こんなに治めやすい国はそうそうないでしょうからね。

 現行国家管理者(権力者)たちは、日本国民を「庶民」のままタコツボ列島にすし詰めに押し込んでおきたいわけです。 「千代に八千代にさざれ石の巌」のごとく未来永劫にわたって、です。社畜どころではありません。国畜です。日本国の主権者は、国の象徴である天皇ではなく、国畜である庶民でもなく、現行国家管理者群(各省庁課長クラス以上の高級官僚・財界3団体の首脳部・自民党執行部の面々)こそが極東日本列島の(集団的)統治者であり、自実上の主権者(つまり統治者)であります。

 したがって、この日本という国は、 巾着型のタコツボの完成を目指して、これからも邁進していきます。そして、情けないことに、アメリカの外圧なしには、 だれもその勢いを止めることはできないのです。いまアメリカでは、金融グローバリズムの名のもとに日本を振り回したルービンが去り、 朝鮮半島の緊迫もあって、日本シゴキの手を緩めており、デフレ不況のまま鳴かず飛ばずで存続すればいいという判断に立っています。このため自民党は完全に息を吹き返し、権力にすり寄る茶坊主どもを貪欲に併呑しながら、巾着型タコツボ国家を造り上げることで、 自民党版千年王国を築こうとしています。けしからんことです。

 ちなみに、自由民主党はおよそ「政党」などではありません。 いわゆる政治結社の範疇か、もしくは政治的徒党の範疇でしょう。この徒党を組んだ政治屋連中は、「政党」という看板を立てた建設マフィア族の親分連合会ともいうべきものです。建設マフィアの惣領格が大手ゼネコンというわけです。これについてはいずれ詳述します。 ここでは、わかりやすく「ゼネコンベース政治屋派閥連合体」、略して「ゼ政連」と命名しておきましょう。そうそう、自由党も同類であり、この連合体の有力なメンバーです。

 で、日本を風通しの良い国民国家にするためには、民主党の力だけでは弱すぎます。なぜなら、この党には、 自民党出身の議員がかなりいるからです。この人たちが民主党の求心力を分散させています。しかし、国会は数の論理だけの世界ですから、多少怪しいのが混じっていようとそのまま走らないわけにはいかない。さらに、雲行きの悪いことに、密かに頼みとしていたアメリカの強烈な「外圧」もルービンの退場で下火になったから、なおさら弱体民主党の真の姿がモロ表面に出てきてしまった。民主党としては、アメリカのグローバリストに日本の最大のネックである金融システムをさらに徹底して攻撃してもらい、現行国家管理者の威信が再び揺らぐのを待つほかないようですね。「民主」の風はアメリカから吹いてくる。昔も今も…。


目次へ       「社会時評」へ

長い長い稲作の伝統

 

 どうやら、住民投票及び国民投票(直接民主制)を議会制民主主義(間接民主制)の「牽制」のために使うことが、この国では必要なようです。政党相乗りや党内派閥の抗争は、国における政党政治の限界を露呈しています。もはや政党は死んだ。あるいは、 初めから死んでいた?! 議会制民主主義における政党政治の死滅は、この国のさらなるファッショ化への序曲でもあります。 フレンドリーなファシズムが、今まさにサナギから毒々しい蝶へと着実に脱皮しつつあります。

 さて話は変わりますが、ちょっと訳知り顔に言わせてもらうと、タコツボ会社、しかも巾着型の(いちどはいったらタコだけでなく、小魚すらも絶対に出られない)タコツボ。 こんなタコツボは漁業の世界にはないかもしれませんが(笑)、日本の産業社会にはいたるところにあるんですね。 で、学生諸君は、少しでも居心地のいい(待遇の良い)タコツボを狙って殺到します。そういうところは買い手市場だから、優秀な人材=学力偏差値の高い大学出身者という単純な数値基準で選ぶ。したがって、いいタコツボにはいるためには、いい(学力偏差値の高い)大学に行かねば! いい大学にはいるためには、いい高校・いい中学に…。そして、深夜まで塾で勉強して、受験スキルを磨かねば!

 というわけで、受験地獄が全国津々浦々に広がって久しいわけですが、この元凶は日本国を埋め尽くしている大小さまざまの タコツボ会社にあります。それも個々の会社の問題というより、この国の就労形態のあり方としての、長い長い稲作の伝統による、田んぼに張りつけられた小作人という就労風土が、この企業風土を同時に形成しているわけでもあります。

 そしていま、この企業風土(小室先生のいう「協働共同体」)が、 雇用の流動化による活発でダイナミックな労働市場の形成と、それに基づくアグレッシブな新参企業の登場を阻害し、 日本経済のマンパワーを圧殺している主な要因となっています。受験地獄による教育現場の致命的なひずみの元凶に留まっていないのです。 これは、長い歴史に縛られたこの国の「業」のようなものですから、あの小沢一郎ですら、この縛りを解き放つことは困難でしょう。 もっとも、彼の場合は強権主義にはしりやすいので、事態はもっとひどくなるかもしれませんが。

 いずれにせよ、 日本国は、庶民が「国民」になるという奇跡が到来しないかぎり、自らその縛り(ほとんど呪縛といってもよい)から「自由」になることはできないでしょう。 ところでそれは「奇跡」ですから、現状での可能性はニアリーゼロです。この「奇跡」は更なる金融危機であれなんであれ、 やはり、アメリカの風(それもほとんどハリケーンのような)によってしか、起こらないでしょうね。かえすがえすも残念なことです。


目次へ       「社会時評」へ

花とプランター

 

 さて、具体的なデータとともに説明をうけると、日本企業タコツボ論の正しが充分な説得力をもって認識できますね。いのさんの勉強の成果がいかんなく発揮されています(^ ^)

 ところで、日本企業タコツボ論とは、言い換えれば、雇用環境閉塞論でもあり、いずれにせよ、「あるべきでない姿(好ましくない姿)」としての認識に立っています。したがって、あるべき姿とは、結局のところ、雇用の流動化に行き着き、労働市場の開放によって、クリエイティブでアグレッシブなニュータイプの企業たちが生成消滅を繰り返す。もちろん、企業は存続することに意義があるわけですが、一方で、経営者自らの手で潰すのも抵抗ない世界ができあがっていなくてはならない。放り出された社員は「能力に応じて」比較的容易に再就職できる。したがって、転職も容易であり、適材適所もしくはより厚待遇を求めていたるところで(良質な)労働力が血液のように流れている---といった図でしょうか。

 こうなると、企業とは、経営者にとっても、そして被雇用者にとっても産業社会における自己実現のツールに過ぎなくなる。企業がいまだにムラ=協働共同体であるなんて、封建的な農奴制の残滓のように見えてきます。なぜなら、その人の人生での自己実現が(自己責任の基本原則とともに) 主役になるからです。もちろん、ある人にとっては、依然として、ムラ社会型企業風土の中での「出世」が自己実現の途でしょうが、 それは数ある選択肢の一つに過ぎない。そのような産業社会の到来が、日本をこれまで以上に活力に満ちた国に 導いていくでしょう。

 というのも、日本人はほとんど生来的に勤勉であり、それは、長い長い稲作の伝統によって培われた集団主義(タコツボ社会)の大きな成果であると認めますが、このエトスは、一見、集団主義を否定するような雇用の流動化が生じても、その長大な伝統ゆえに消え去ることはないでしょう。むしろ、雇用の流動化という個人ベースのホットな産業社会の中で、蓄財と自己実現をベースとした新しい花弁を開くことでしょう。そして、その花のプランターは、所属する個々の企業ではなく、国際社会に確かな地位を占めた日本国であろうと思います。


目次へ       「社会時評」へ

日本の呪縛

 

 8/13の景です。通信傍受法が成立しましたねえ。それと国民基本台帳法の改正も。理念なき現政府のファッショ化はもはや避けがたいものとなっています。これからは、住民台帳で国民にナンバリングし、次回の国勢調査の後、不公平税制の是正という触れ込みでグリーンカード制を敷きます。同時にデノミ論を社会にばらまき、「新円切替え+預金封鎖+大増税」を敢行します。これによって、700兆円もの財政赤字を責任者を断罪することなく、国民(いや、庶民)の虎の子を力づくで取り上げ、一挙に赤字を「蒸発」させてしまいます。その際、グリーンカード制は、富裕層を中心にもれなく課税するための非常に効率的なツールとして使われます。日本庶民はおとなしい小羊ですから、これからさきも、ハイエナや禿鷹のように屍肉(日本庶民の政治離れ)を漁る現行国家管理者どものさらなる餌食となっていきます。

 かつて日本庶民が、当時の国家管理者どもの愚策の積み重ねにより、300万人もの犠牲を強いられたことを忘れてしまっているかのようです。「国民」は「国家」の母体であるとともに、国家の経営を委任した国家管理者たちに対しては、これを監視し統御する責務を負っています。きっと悪いようにはしないだろう、などというのは甘い幻想です。日本庶民がいつまでもあなたまかせのお気楽な「庶民」の途を選択し続ける以上、結局は、自分自身(とその家族)に大きなツケとなって返ってきます。つまり、「破滅」という名の終着駅まで自動的に走ってしまうのです。

 それを押しとどめ、軌道修正できるのは、民主主義国家において主権(=統治権)を有する「国民」しかいなのです。ところが、日本という国には、本質的なところで他者依存型の者ばかりであり、自立した「国民」などいないため、いともやすやすと、竹下=小渕流フレンドリー・ファシズムに(バブル崩壊を契機として鼓動し始めた)国民国家を乗っ取られてしまう。これからいよいよ、日本庶民は自らの選択によって、長く暗い悲痛の時代にはいっていきます。「国益」という名のファシズムが極東アジアの弓なりの列島国家を窒息させるまで、この行軍は止まらないのです。

 この国は、先の「新円切替え+預金封鎖+大増税」という大博打で転倒して、世界の3等国、アジアの2等国(中国の属国視が強まる)に落ちます。国威の地に落ちた日本国は、その後、「アメリカ・NATO」対「中・露・印」の東部ユーラシア枢軸との緊張の狭間で激しく翻弄されることになりますが、(日本がこのとき本来の国民国家になっていれば両者の一触即発の緊張を解く役割が十分できるのですが、)ただの軟弱なファシズム国家なので、付和雷同・右顧左眄のなかで、両陣営双方の楯になって、しまいには引き裂かれることになります。

 さて、ここで「国民」であることはどういうことかよく考えてみましょう。それは権力の専横を抑止できる人々の総称です。なにがわれわれにとって幸福か、幸福の保持のためにはキリギリスではいられないのは自明なことです。いつまでもキリギリスのまま、自分たちの幸福の基礎である「政治」を、永田町のハイエナどもにまかせっきりにしているわけにはいかないでしょう。でも、いったいこの国の庶民たちは、集団主義の催眠(呪縛)から抜け出る日は来るのだろうかと、真剣に心配してしまいます。


目次へ       「社会時評」へ

茶坊主政党

 

 ところで、今のフレンドリー・ファシズムを永田町で応援しているのはだれでしょうか? 言わずとしれた「茶坊主」政党の面々です。商品券の強引なばらまきなど、およそ経済(財政)センスの欠落した独善的な茶坊主どもは、ハイエナのような自民党執行部に大臣のイスをちらつかせられたから、オヨヨと転んで、フレンドリー・ファシズム体制推進の加担者となった。

 自由党の禿鷹どもは、ハイエナと同根であるからこれは処置なしとしても、この茶坊主政党が(まずは連立政権に入って政権担当をするなかで、機会をとらえて単独与党として政権を奪取するという)馬鹿げた妄想を密かな大義名分として、結局のところ目先の大臣のイスに飛びついた。そして、フレンドリー・ファシズムのお先棒担ぎをやりはじめた。この選択は、日本の「健全な(=米英を範とした)」民主主義の萌芽を完全に摘み取るものだということを知るべきです。

 もとより、仏教の一宗派を奉じるこの独善的な茶坊主政党が「健全な」民主主義を理解しあるいは擁護するはずもないのですが、しかし、このような政党?によって、国際社会における日本国の「自主独立」のチャンスをみすみすつぶされてしまうのは、実に残念なことです。これからさきもこの茶坊主どもは、老獪な自民党の寝技にうまくほだされながら、アリ型社会あるいはハチ型社会の「完成」に向けて、間抜けな踏み台となっていくことでしょう。返す返すも残念なことです。

 そこで質問ですが、日本は「アリ型社会」と「ハチ型社会」と、どちらがイメージ的にあうでしょうか? つまり、地面をはいずり回り、暗い地中の巣を動き回るアリ型と、ぶんぶんとうるさい羽音を立てながらわがもの顔に飛び回り、おさおさ攻撃態勢を怠らないハチ型といったいどちらに近いでしょうね? あるいは、こないだTVで紹介していたハダカデバネズミのややユーモラスな中央集権的集団主義国家体制でしょうか(笑)

 すくなくとも日本は、この国の不文律である「日本教」の自動誘導装置により、ほおっておけばいとも簡単に、天皇を頂点とした中央集権的な集団主義国家になってしまいます。「日本教」そのもののなかに、つねにそのベクトルがあるからです。じゃあ、なにも難しいこと考えず、この方向に身を委ねればいいじゃない、という意見もありそうです。でも、「日本教」は生活そのものに染みわたった不文律です。言語によってその「思想」が客体化されていません。そのために、このような状態での「集団主義」化は、みんなで渡ればこわくないという無責任体制を生産し、その結果、明確な戦略もないままに歴史という時空を漂流しはじめますから、国際社会での「異常」な困難にぶつかったときに、これもまたいとも簡単に集団ヒステリー状態に陥り、「一億総火の玉」とか「一億総玉砕」などと叫んで、自ら破滅まで突き進もうとします。

 簡単に言えば、これら一連の傾向は、故・山本七平氏のいう「空気」に支配されているわけですが、この淵源は「日本教」が不文律(非言語体系の教義から成っている)であることにあります。確かに、ベンダサンの指摘からもうかがえるように、神道はもとより仏教諸宗(浄土真宗、禅宗、日蓮(正)宗、真言密教諸派などなど)も日本国内のキリスト教諸派も日本共産党の奉じるマルキシズムも 「日本教」の池を泳ぐ魚のようなものでしょう。

 日本の「健全な」民主化とは、この不文律の「日本教」を言語化することにほかなりません。すくなくとも、このプロセスなくして、空気の支配による親・ファッショ化の途を断ち、自立した個人による責任ある社会体制の構築を図ることはできません。ただし、問題はもっと複雑で、「日本教」が言語化(ロゴス化)されたとき、ベンダサンのいう「空体語」は一神教的な「神」によって定立されねばなりません。でないと神は空名のままですから、これまでとなんら変わるところがありません。

 ならば、ユダヤ的一神教になったらどうなるか? もはや、そのときには「日本教」そのものがなくなった、としかいいようのない状況になるでしょう。では、果たして「日本教」を放逐してしまうような言語化ができるのだろうか? 日本型の集約的稲作を基礎とした長い長い生活史のなかではぐくまれ完成した「日本教」が、言語化=>一神教化するようなプロセスを踏むことがあるだろうか? この問いかけは、日本の「民主化」を図るうえで、言い換えれば、民主化プロセス・リエンジニアリングでの根本的にして最高難度の問題提起です。この問題は、連邦共和国体制と天皇制のはらむ問題よりもっとラジカルで困難な問題です。


目次へ       「社会時評」へ

浅ましき者たち

 

 突然ですが…無節操で恥知らずの小渕政権を打倒するときが来たようです。与党間ですったもんだしている介護保険の保険料徴収を半年据置きする件は、来年秋の期間満了による衆議院総選挙に当たって、有権者(とくにお年寄り)にすこしでも反感を持たれないようにするための、選挙対策に過ぎません。実に浅ましい連中です。

 全国に盤踞する大小さまざまの建設マフィアの代表者らで構成される「自由民主党」。そのなかの大ボスたちが国会の赤絨毯を踏みあらして、ひたすらおいしい公金を食い散らかしています。彼らは断じて「政治家」ではありません。「政治屋」という名の公金イーターです。

 したがって、彼らの党も断じて「政党」ではありません。日本国の民主化を阻害する「建設マフィア代表者連合会」です。癌細胞のように、ひたすら自分たちのよって立つボディ(国)を食いつぶしていく金権亡者たち。わたしたちは、このような不埒な者どもに国運を委ねています。国が傾くのは当然のことです。戦後史上最悪の小渕政権が居座っているいま、国家沈没も時間の問題といえるのです。


目次へ       「社会時評」へ

インテリゲンチャ

 

いの>
 さて、現代における思想家とは…。日本を変える人物とは…。???ですが、とにかく政治がまた最近おかしいですね。野党のいない本会議で首相演説とは…。ためいきばかりです。
>いの 


 この問題については、根本から考える必要がありますね。起立した者の頭数だけで予算案や法案が通り、そもそも討論など絵空事ならば議会は必要ないわけで、これはまったくのファッショな世界です。今のところはまだ、フレンドリーなファシズムの世界。日本はこういう状況下にあります。

 でも、野党のボイコットも児戯に類するものですね。もともと万機公論によって決していない議会になぜノコノコと出てくるのか、不思議です。このような偽りの議会運営自体を壊さなければならないはずなのに。

 間接民主制の名のもとで、代議員制の少人数のクローズドな世界のなかで、数の力のみによって国政が迷走するような「危険」な状態に対しては、これを牽制するシステムの導入が必要です。それが、以前にも申しました、直接民主制による「住民投票」方式を国会決議へ導入することなのです。

 今回のような「暴挙」に対しては、ファシズムの台頭を抑えるために、「国民投票」の機会を設けて、これにより、最終決定をくだすべきと考えます。このような、直接民主制による牽制がぜひとも必要となります。でないかぎり、この国に民主主義など(最初からないのですが、今後も)根づきようがありません。

 政府及び官僚どもは、フレンドリーなファシズム体制を維持するために、これからも「住民投票」を無視し続けます。このような輩は厳しく糾弾し、社会の表舞台から追放しなければなりません。この国のフレンドリーファシズムが、ハートレスファシズムの本性を現わすまえに!

 ところで、W教授の『怒れ! 日本の中流階級』は、予想以上にエキサイティングな書物ですね。まだ、やっと半分程度ですが、「民間部門という虚構」に至って俄然おもしろくなりました。氏の全著作と小室先生の全著作、そして故・山本七平氏のいくつかの優れた著作と「翻訳」書をもって、現代日本の本質をほとんど完璧に捉えることができると思います。

 そして、これらから日本教の(過去に一度も体系的に明文化されたことのない)教義を必要なら数式を使ってでも描き出し、最終的にはこれを「民主主義」の理念に燃えた教義へと書き換えること。これが、この国における真のインテリゲンチャのやるべき仕事です。

 わたしもトライしていますが、わたしよりも数倍も優れた「脳力」の持ち主の登場を願ってやみません。わたしですと、いつ成就するかわかりませんから(^^; では、また。


目次へ       「社会時評」へ

忍びない国

 

 「日本の教育はついに死んだ」と小室先生は『歴史に観る日本の行く末』の冒頭で指摘されています。確かにそう思います。 歴史的アイデンティティの希薄な国に、まともな教育ができようはずがありません。ばくたちは日本歴史を「正しく」理解し直すことが必要です。

 正しく? そう、正しく、です。この柔らかい全体主義的国家が、「身の程知らずの暴走」を再び起こすことのないよう、 過去の敗戦に至る経緯を充分に分析し(小室先生に感謝!)、今後の日本の的確な舵取りの指針の一つに据えなくてはなりません。

 わが愛するヤポンでは、日本国の過去の致命的な「失敗」に充分注意し、米欧型民主主義のエッセンスを導入した安全網をしき、 集団ベースではない、個人ベースでの「国民づくり」をおこなっています。そういう意味での「社会教育」制度についても、 いずれ詳しく触れたいと思います。

 とはいうものの、このこと自体とても容易ではないことも充分承知しています。あるいは、ほとんど絶望的な試みともいえるでしょう。 この国の人々が、「和」の幻想のなかで座して衰えていくのを見るのは、国民の一人として忍びないものがあります。しかし一方で、結局自分たちで選んでいる「庶民」としての生き方ですから、それもやむをえないともいえます。


目次へ       「社会時評」へ

夢キャンペーン

 

 ふむふむ、宝くじですか? 夢があっていいですね。なるほど、日本人の好きな「夢」ということばは、宝くじそのものなんですね。自分で言って気づきました。「夢を諦めないで」とうとき、「宝くじにあたるまで買い続けよう」という隠された無意識のキャンペーンが貼られているんですね。

 現代日本を生きる庶民の集合無意識を捉えるキーワードはこの「夢」というはかないことばです。その点わたしは、あの松坂君が大好きです。かれはまだ未成年であるというのに、「夢」ではなくて「目標」と、実にプロフェッショナルなことをいっています。素晴らしい少年(いや怪物?)です。

 わたしも全く同感です。人生におけるその人の試みは、「夢」ではなくてつねに「目標」と位置づけるべきです。「夢」というとき、その高い目標設定ゆえに、やるまえから未達成の際の逃げ場までセットにしている。そして、なお悪いことに、その高い目標設定自体にひたすら酔い続けていようとしている。そんないい加減さが垣間見えて、「夢を!」「夢よ!」というフレーズは好きになれません。好きになれないどころか、非常に危険な兆候さえ嗅ぎ取ります。

 というのも、この国の国家管理者たちにとっても、庶民が「夢を!」「夢よ!」と合唱しているのは、決して悪いことではないんですね。「真の民主国家を樹立しよう」というのが夢と目標とでは、全く意味合いがちがいますからね。後者の方がずっと先鋭であって、日本庶民の多数がそういう目標を掲げたら、現行の国家管理者たちはぞっとして、あの手この手で潰しにかかるしょう。

 マスコミの大好きな「夢キャンペーン」はその意味からも、問題なのです。「夢をありがとう!」にいたっては、なにをかいわんや!です。このような(大きなゲームに敗けたときの)自愛が大衆に深く浸透しているとするなら、これは、実に由々しい事態です。でも、ぼくはこのようなことを臆面もなく言う人は、マスコミの大衆操作に躍っているごく一部の能天気な人たちであると見ています。

 しかし、マスコミが「夢キャンペーン」の愚かな旗振り役ですから、われわれサイレント・マジョリティは日本国の「国民」としての自覚と行動をつねに自己点検しておく必要があります。「国家管理者」対「サイレント・マジョリティ」の階級的対峙がいよいよ鮮明になりつつある今日この頃ですから。

 おっと、宝くじの話から夢経由で権力批判へといっちゃいました(^ ^) でも、権力は常に批判され、チェックされねばなりません。それが、真の民主国家における基礎の基礎です。また、庶民が政治的関心を持って自らの生活防衛と向上を図ることが、民主主義を独裁者から守る基本の基本でもあります。ばくは日本庶民の多くが政治的に覚醒した「サイレント・マジョリティ」に変貌することを、強く望んでいます。


目次へ       「社会時評」へ

未来から観た現在の日本国

 

いの >
 さて、小渕さんが大変なことになりました。大変な難局で、批判が集まりがちだったこと、小沢さんが抜けるとか言い出して、とてもストレスが掛かったののでしょう。政治家には珍しく、謙虚な方です。 いろんな批判をまともに受けとめて、ストレスの掛かりやすい傾向があったのかもしれません。また、クエスチョンタイムが重くのしかったのかもしれません。とにかく色々言っても、今日は新しい内閣が成立しました。
> 景 


 任期中に総理の病気で倒れた内閣としては、戦後4つ目だそうですね。それくらい少ない希有な事態のようです。 逆にいえば、国のトップに立つ政治家というものは、相当タフな人々だということでしょうか。その点、小渕氏はやや「普通の人」に 近かったのかもしれません。わたしは、この人が総理大臣になったときから言っているのですが、彼は一国の首相になるべき人ではありませんでした。間違って総理大臣になった人でした。したがって、去るべくして去ったという感じです。

 こんどの森氏にしてもそうです。彼ももちろん「器」ではありません。派閥の問題を抜きにして、いまの自民党内で総理にふさわしい人物は、河野洋平氏か加藤紘一氏でしょう。とくに河野氏は、わたしたちサイレントマジョリティにとっては「強敵」であり、充分に警戒すべき人物です。

 ですが幸いなことに、この人は自民党の主流でないためにいつまでも首相になれないでいます。このことは、単なる利権あさり集団のエセ政党でしかない自民党の限界を示しているとともに、わたしたちがこのサイトで主張している「真」の民主主義を展開していくうえでも、きわめて好都合な状況にあります。自民党はこれからも、時代の激流を読み切れずに、目を覆うばかりの失政を繰り返してゆくことでしょう。

 しかし、このプロセスが「真」の民主主義の達成のためには必要不可欠であり、現在の日本国の(未来から振り返って見たときの)歴史的状況は、徐々にそして確実にわたしたちの意図する方向に動いています。

 ところで、河野氏がなぜ「真」の民主主義にとって「強敵」であるかについては、彼が首相になったときにおのずと明らかになるでしょう。彼は政治家として尊敬可能な人なので、そのような日の来ないことを望んでいます。


目次へ       「社会時評」へ

小渕前首相幽閉説

 

いの >
 さて、森内閣が成立しました。 今回の小渕さんの病気について、朝日新聞の声の欄に、とても気になる記事がありましたので、紹介します。それは、飲み屋で出た小渕さんの病気の真相についての噂です。 「声」の欄の筆者の友人が言ったようですが、「小渕さんは病気ではない。政敵に幽閉されているのだ。」という噂だそうです。 とんでもないことをと、言いたくなった僕に、「声」の筆者は続けます。「たしかに小渕さんの病状について、専門家である医師から、何の説明もなく、あったのは医学については素人の青木官房長官のあいまいな話ばかりだ。」と。

 そういう主旨のことが書いてあったわけですが、この欄を見て思ったことがいくつかあります。一つは、こういう噂を、噂として否定しきれない、日本の政治の開かれていない状況です。確かに、イギリスやアメリカの新聞は、「首相が倒れた事実を何時間も知らせないのは、先進国 では普通考えられないと批判しました。さらに「首相が倒れた時に、誰が業務を引き継ぐかについて取り決めが、何もなく、危機管理がない」と批判されました。

 危機管理については、脇におくとして、重大な事実を隠したまま、何時間も発表しなかったのは、「まるでソ連時代のクレムリン」と批判されたのもやむを得ません。また少数の人たちで、次期首相を決めたこと、決める過程も不透明さを感じました。 こういう開かれていない状況だからこそ、「政敵による幽閉」などという噂が妙に説得力を持って聞こえるのです。

 もう一つ感じたのは、医学という開かれていない分野の存在です。専門知識の陰に隠れて、顔を見せようとしない医師達の姿勢にも、政治家と同じ様な疑問を持ちます。 政治と同じように、医療の世界にも、クレムリンが存在するからこそ、こういう噂が真実味を持った噂話として受けるのです。

 三つめの疑問は、朝日新聞とが、「天声人語」という少々くだけたコーナーであれ、噂というあいまいな形ではあるが、こういう疑問を呈したのは、勇気あることだったかもしれないと思います。でも、天下の大新聞ならば、堂々と首相の健康についての説明を政府に求めるのが筋ではないかとという疑問を感じます。なぜ「天声人語」に書いたのでしょうか。 なんだかもの言うのが、だんだんおっくうになってくるような、いやな雰囲気を感じます。これは要注意です。

 先日の「声」に、これも気になる記事が出ていました。 年輩の方の意見でしたが、NHKの日曜の大河ドラマに北条時宗が選ばれたことに、戦時中に国威昂揚のシンボルとして担ぎ出された人物をなぜ今出すのか心配されていました。 その方の意見によると、「北条時宗が表面に出るときは、右傾化が心配な時と、識者の間では従来から言われてきた」(趣意)とのことです。 たしかに北条時宗は、元の大軍を撃退した方ですが、ラッキーなことに二度とも台風で元の船が沈んだりしたことから、「神国日本」のイメージとして定着したものと容易に想像できます。

 だんだん話が飛躍しそうで心配になってきました。(笑い)でもこういう大変なとき(政治も経済も教育も本当に大変)なときこそ、北条時宗のようなヒーローを求めるのではなく、国民が主人公になれるしっかりした政治中枢を作る必要を大変感じます。ではまた。余談がなが〜く なりました。失礼いたしました(^-^)/
> 景


 なるほど、前首相幽閉説。このあまりにおいしい!トピックには気づいていませんでした。いいことを教えてもらいました。でも、だれが幽閉したのか? 小渕の政敵とはだれか? YKKトリオ。河野洋平。亀井静香。野党の面々。あるいは小沢一郎。彼がいちばん怪しい(笑) バッサリ切られた 腹いせに切り返した。ひょっとしたら連立解消を撤回するかもしれないという淡い期待とともに。

 とすると、つぎは造反した野田毅が血祭りにあげられますね。野田がなんらかのかたちで政治的に(あるいは身体的に)生命を絶たれたら、小沢謀略説が正解だったということになるでしょう。でも、これは政治ミステリーの世界。これに自衛隊のクーデターを絡ませれば、スゴクおもしろいものができそうですぞ(笑)

 それから、医療界の閉鎖性。これは往年の名作『白い巨塔』にもあるとおり、今もむかしも、そしてこれから先も、日本が伝統主義に固執するかぎり 続いていくことでしょう。超閉鎖的ギルド集団。こういうのって、この国にはたくさんありますよね。こいつらを変えたければ、 ひとつひとつを個別に変えるのはどだい不可能なので、それこそ「解放」という名のもとに、日本国自体を大改革(すなわち革命または維新)しなければならないでしょう。

 でもこれは、日本国内部の庶民の力でなしとげることは「不可能」です。例によって、「外圧」に頼るしかありません。外圧のたのみは アメリカですが、これは日本の超低金利政策によってアメリカの足下にひれ伏して好景気を維持してやっているものですから、 いまのところ米国から厳しい外圧がかかってくる気配はありません。そういうわけで、「やるせない国ニッポン」はこの先もまだまだ安泰のようです。

 さて、北条時宗の登場の話。徳川慶喜。赤穂浪士。葵三代と、現代日本のエトスの基礎(日本教の基礎)である「江戸イズム」を称揚した後に、いよいよ国防軍の意識を高めるために、北条時宗をかつぎだしたという感じですね。これは明らかに北朝鮮脅威をバックにした国防軍の必要性を訴える物語であります。 この番組からは、「日本国防軍万歳!」などというフレーズの強烈なサブリミナルが発せられることでしょう(爆笑)  

 さて、国防軍の件については、わたしは「いのさんとの対話」シリーズの中で肯定説をとっています。そればかりか自衛隊を早く軍隊化しろ!とまで言っています。 この考えは、もちろん変わりません。でも、国営放送が歴史物語によって露骨にプロパガンダするのは、方法としては姑息なものを感じます。 そうではなくて「汎く会議を興し、万機公論に決すべし」なのです。スクリーンで庶民を洗脳するのは、ファシズムの手法です。ファシズム国家の国防軍は 危険きわまりないものであります。これまでのフレンドリー・ファシズムがいよいよ牙を剥き始めたのかもしれません。おたがい用心しましょう(笑)

 さらに、新聞の話。新聞はテレビ同様、報道規制を自主的に!敷くような奇妙なところですから、わたしはもともと、こういう連中になんの期待もしていません。 ウォルフレン教授は、大新聞に投書云々と言っておられますが、この国の新聞は日本教の公報新聞にすぎませんから、こんなのにいくら投書しても まともにとりあげることはないでしょう。なぜなら、日本教自体に投書(=言挙げ=直訴)を認めない黙示のドクトリンがあるからです。 日本国を知り、日本国をより住みやすい国に変えるためには、この「日本教」を知り抜き、黙示であるがゆえに悪弊多いこのイズムを「民主的」な方向に変革することこそが肝要です。

 このイズムは数理的に解析可能であり、これによって論理的に白日の下に正体を引きずりだし、その変革すべき患部を明示することができます。いま、その作業をはじめたばかりです。でも、これは日本国の「真」の民主化にとって絶対に必要な作業だと思っています。ではまた!


目次へ       「社会時評」へ

鉄槌の下らんことを!

 

 6/10です。今朝も1発ありましたよ。震度2か3くらいのやつ。熊本は怖いところです。大地までもが怒っています。近づかないようにしましょう(笑)

 何に怒っているかって? もちろん、言わずと知れた政府+自民党のGDP0.5%成長の大ウソと、まるで国民葬ででもあるかのように、お涙ちょうだいで大々的に報道した小渕前首相の内閣・自民党合同葬です。いずれも今月25日の総選挙のための布石にすぎず、 合同葬の目的は国民の同情票を獲得しようとの狙いからです。もちろん、故人も役に立って喜んでいることでしょうが、ネ。

 しかし、統計で嘘をつくのはよくないですね。もし嘘と言われたくないのなら、算定根拠を詳細データに至るまですべて公開すべきです。 その立証責任は政府の側にあります。つまり、説明責任の一環です。それもしないで、数値結果だけ発表してもだれも信用しません。 ウトツキ政府(自民党+コウモリ官僚+堺屋太一)をより鮮明に印象づけるだけのことです(笑)

 このように、われわれサイレント・マジョリティは、 静かに、そして深く、怒っています。このふざけた国家管理者どもに鉄槌の下らんことを! アーメン


いの >
 おーっ(驚きの声)随分とご立腹のご様子ですね。もちろんひやかしているわけではありません。本当に嘘のデータを発表しているとしたら、戦前への回帰そのもではありませんか。つまり、帝国陸軍や帝国海軍が、アメリカに敗戦を続けている時に、連戦連勝と嘘をつき通したのは、マスコミとそれを統制した帝国日本政府でした。

 ウォフレン氏の本には、「偽りのリアリティー」と書いてありましが、僕が訳すとしたら「もっともらしい嘘」ぐらいの表現にした方が良いと思うのです。そういう面での嘘つきが本当に行われているのでしょうか?教えて下さい。
> 景 


 嘘はいずれバレるものです。政府は、0.5%の算定結果に至るまでの詳細な経過と、そのときに採用した個々のデータをすべて開示する必要があります。これは重要な事柄なので、われわれが要求するまでもなく政府が率先して公開し、市民および市場に対して充分すぎるほどの具体的な説明を行うべきです。衆院総選挙を間近に控えたこの時期にこのような発表をするわけですから、当然のことでしょう。だれも結果だけ聞いて、信用するようなお人よしはいません。

 これは当然のことであるわけですが、民主主義を標榜するのであれば、 詳細な根拠も示さずに結果のみ発表する政府は、そこに権力が集中しているからこそ、「国民」はうのみにしてはならない、ということです。 専門家筋が分析しても、確かに間違いないというほどの詳細なデータと解析プロセスを開示しなければ、大本営発表とみなされてもしかたありませんね。

 民主主義国家を公称するのであれば、これはあたりまえのことですよ。ところが、市場の専門家筋の反応はどうでしょうか。その多くは選挙との絡みから、そしてなにより現場で感じとる景況感から、疑問をなげかけています。 政府は市場を見くびってはならない。また、サイレント・マジョリティに対しても同様です。

 さて、さらに付言しますと、オハコの公共事業部門をブラックボックスのまま公表してもなんの説得力も持ちません。 この部門の詳細なデータを費用対効果の観点から、市場に公開しないといけません。でないと、だれも信用などするもんですか。

 すると堺屋老人はこういうかも知れません。公共事業は費用対効果の実効的なスケールができあがっていないので、そのようなデータの開示はできない、と。 ならば、どうやって0.5%をはじいたの? ということになりますから、結局このような言い逃れは通用しません。

 つまり、そのようなスケールメリットのない事業部門に何兆円もの大金をじゃぶじゃぶとつぎ込みながら、GDPでは切り離して算定したということなら、これは笑止千万。政府は大ウソつきですと自ら白状するようなものです(笑)

 したがって、どっちにしても政府に逃げ場はありません。「筋の通った説明なきところに真実なし」です。そうみなされても仕方ないのが、民主政治の世界ですよ。ネ、いのさん。ではでは。


目次へ       「社会時評」へ

サイレント・マジョリティへ

 

 あの扇大臣は、ズブの素人でも大臣になれることを自ら開陳し、「運悪く(建設)大臣のイスについた。まるで交通事故と同じだ」といった趣旨の放言をしました。 なんという恥知らず!! 一国の経営責任者の一人になるべき人物としては、あまりにも了見が萎靡卑屈。自ら牽引すべき「議院内閣制」を大臣就任と同時に面罵嘲弄している。 救いがたい不見識。厚顔無恥。若作りのタコ婆さん。Hey YOU! Go to the hell!!! われわれはやはり、総理を含めた各大臣の資格審査権を行うべきです。

 泥舟未満のお笑い内閣がこの国全体を沈没させないように、はやくちゃんとした帆船を就航させなくてはなりません。いずれにせよ、この泥舟政権を信任したのは、 地方の主として郡部小選挙区の農商工業者の面々ですから、かれらはその責任が重大であることをはっきりと自覚しなけばなりません。 各地方において目先の我田引水に走るこの連中は、その代表者である利益誘導の田舎代議士ともども、この国のガンであることを心得ておくべきです。 


いの >
 扇さんのコメントは秀逸です。久しぶりに大口をあけて笑いました。(^-^)選挙に行って思ったのは、小選挙区制の理不尽さです。 狭い範囲で立候補者を小人数の候補を立てて、選挙民を無理やりにどこかの政党に押し込めようとしています。投票したい人がすぐそばの選挙区にいるのに、投票できないくやしさを味わった人も多いのではないでしょうか。

 この選挙制度は、投票する立場ではなく、絶対に投票される政治家の都合でつくられていますね。これはいかんです。 いやしくも国家のかじとりをする政治家を選ぶわけですし、国民の代表である政治家を選ぶ選挙です。町や村の議員の選挙ではないです。 もう少し選挙区の範囲を広げて、投票したい党があればそれに入れるようにした方が良いでしょう。マスコミなどの有名人が有利だとか、芸能人が有利とかは出てくるでしょうが、投票したくない人に投票せざるをえない現状よりは良いでしょう。(^-^)/
> 景 


 今回の小選挙区制選挙では、本来だと自民党の圧勝に終わるはずなのですが、なんでもありの小渕政権以降(森政権に至ってはこれはもう醜悪の極み。放っておいても自滅の道をたどるでしょうが)、かろうじて田舎選挙区への利益誘導で救われたという、いやらしくもいびつな構図が明らかになりました。この両者を封殺し、日本国を明快な風通しのよい国にするために、われわれサイレント・マジョリティもさらに気を引き締めて、地に墮ちたこの国に「『国民』のための政治」を樹立しなければなりません。

 大企業の業績が最近上向きに転じたと、新聞諸紙は盛んにラッパを吹いていますが、そのために大規模なリストラを断行してきたわけであり、それがやっと効果を現してきただけのことです。ですから、これは当然そうなるべき筋合いのものであって、そうならないとおかしい。

 にもかかわらず、大企業の業績向上のトレンドをもって国全体の景気がもちなおしてきたような法螺を吹くブン屋どもは、先のGDP0.5%成長の大本営発表となんら変わることのない役割を果たしています。彼らの記事は、もっと本質に切り込んだ論評を加えないかぎり、「事実を正確に伝える」機能を果たしていることにはなりません。マスコミは単に「事実を伝える」だけでは存在意義がないのです。むしろ、害悪ですらある。

 さて、リストラそのものは決して悪いことではないのですが、日本のように、雇用の流動化が制度上保証されていない、つまり、労働市場が確立していない社会では、リストラは社会悪の様相を呈します。 したがって、業績向上を果たした大企業各社とも、「わが社はこれだけの人員リストラによって、これだけの業績向上を果たした」などと本当のことをコメントするのもはばかられるといったところでしょう。

 かのアメリカでは、ここらあたりは堂々と説明しますよね。これは文化の違いやお国柄の違いの問題ではありません。労働市場が健全に確立されているかどうかの社会制度上の問題です。 日本では、雇用の流動化が阻害され制度的な保証などないために、契約社員やフリーターといった労務環境の劣悪な就労者が激増しています。これは「国民」の幸福にとっては、由々しい事態です。

 われわれサイレント・マジョリティは、「国民」として幸福を追求する権利をもっています。就労の局面だけでなく、財政破綻もわれわれの幸福追求を真っ向から否定する大問題です。 大企業(財界)の幸福や利権団体(および自民党)の幸福、官僚の幸福は、われわれ「国民」の幸福を代表していないことを、ここであらためて確認しなくてはなりません。

 地方の郡部小選挙区の有権者諸君も、今回からの小選挙区制の施行によって、よりいっそう力強くこの国のかじ取りに参加できるようになりました。したがって、彼らも「国民」として歩むべきときに来ています。特に若い人たちはそうです。ですから、諸君も立候補者の人柄や利益誘導の実績ではなく、どの政党に所属しているかで一票を投じるべきです。ゆめゆめ人柄(人格)で投票してはならない。

 もし支持政党がないのなら、棄権するのではなく白紙投票または無効な記入による投票をすべきです。無効票の率を上げることも、政治家連中に対してある種の「脅威」を与えることでしょう。ここにサイレント・マジョリティの強みがあります。 あえて無効票を投じることも、政治的意思表示であることをお忘れなく。「あえて棄権」するよりも「あえて無効票を投じる」ほうを奨めます。


目次へ       「社会時評」へ

人気投票プラス芋づる当選

 

 さて、あの愚昧な、愚昧な自民党が次期参院選必敗者を免れるために、非拘束式名簿なるものを発明し、長嶋監督などの超有名人を擁立して獲った全国の莫大な得票を自党の他の名簿候補者にも横流しして、芋づる式にぞろぞろと当選させてしまう方式を、今国会で強行採決しようとしています。オタンコナスの茶坊主政党・公明党も、おバカさんだからこれを後押しするので、今回も数の論理がまかりとおってしまうようです。

 このままだと、このあきれはてた政府与党連は、あくまでも政権という「権力」の座にしがみついて、景気回復の美名のもとに、未来永劫土建屋どもに際限なく税金および公金を垂れ流していくつもりのようです。自民党が政策理念のない目先の権益追及だけの魑魅魍魎の野合であることが、今回は明確に見て取れます。

 あるバカな与党議員が、景気回復ができなくてどうして財政再建ができようか、と愚にもつかないことを言ったそうですが、これは税金・公金垂れ流しの強弁にすぎず、泥棒の居直りと寸毫もちがわない。ほんとうに景気回復を考え財政再建を考えているのなら、パソコン講習券という子どもだまし(さすがに潰れたが)やITのインフラ整備という土建屋愛顧にうつつをぬかすより、大規模な規制緩和と小さな政府(官僚組織も含む)をさっさと断行すべきです。それすらもできない連中に大きな口をたたかせてはならない。2001年からの省庁再編などぜんぜんスリム化になっていないではないか。むしろ「国土交通省」など土建行政部門の大幅な権限拡張ではないか。

 良識ある国民を「大衆=愚民」とみなし、かずかずの低レベルで権力盲従の諸施策をくりだす自民党とお調子者の公明茶坊主党は、この国の健全な「民主的進化」(この概念については後日詳述)を正面から棄損していることを、まずもって自らの肝に銘ずべしです。現在の国政を代表していると思っている与党連は、中長期的にみると、こぞってこの国に損害を与え続けている「国賊」であることを!

 来年の参院選では、対抗する野党も連合し、長嶋茂男・石原慎太郎らに対抗する有名人をそれぞれ立ててこれに対抗するか、または、憲法違反の恐れがあるため、投票のボイコット(ただの棄権ではない)を呼びかけるべきでしょう。 もちろん、政党が選挙のボイコットを呼びかけることは、それ自体矛盾してはいますが、選挙(投票)は国会に送り込むべき国民の代表者を選択するにあたって、立候補した者(個人)に国民個人が一票を投じる行為であり、これは憲法(前文劈頭)において、民主主義そしてその意思表示の一つとしての「投票」という行為が、基本的に個人の自由意思によって営まれることを大前提としています。

 したがって、ある個人への一個の投票に対して、同じ党に所属しているというだけで他の(名簿)立候補者への未定得票数分の1の投票をも含ませてしまうということは、その一個の投票によってなされる有権者の選択が当初から曖昧さを帯びたものに変質させられているという点で、投票の有効性自体の著しい棄損にほかなりません。名簿候補者はあくまで、「政党そのものへの信任」に対して投票(政党名の記入)された結果として選出されるべきものであり、立候補者個人への政策表明に対して「良識の府」への代表権を付託した投票に、政党への信任をも自動的に併せ持たせることはできません。

 それをしたければ、その一枚の投票用紙に所属政党名を別途記入させ、政党名が未記入あるいは所属政党が誤っている場合は政党への投票は無効とすべきです。それができなければ、現行どおりでいくほかありません。なぜなら、どの党に所属するにせよ、個人の名において立候補し、その政策を国民のまえに開陳する以上は、あくまでその個人に代表権を付与するかどうかの投票であるわけです。ある立候補者が何百万票得票しようと、国民の支持(=得票数)はあくまでその立候補者個人への有権者の代表権の付与であり、その結果は当然に立候補者個人に属します。

 これが基本中の基本です。これはすなわち、先述した憲法前文の劈頭の「日本国民は、正当に選挙化された国会における代表者を通じて行動」するための大前提となるわけです。一方、名簿候補者の場合は、あくまで支持政党への信任投票であり、名簿候補者個人への代表権付与ではありません。なぜなら、名簿の順位を有権者が決定したわけではありませんから。

 さて、非拘束名簿式による投票では、未定得票数分の1というあいまいな一票?で他の(名簿上の)候補者にも投じた結果になるわけで、上述したような本来あるべき投票の明朗性に基づく個人から個人への参政付託のシステムを歪曲しており、このことはとりもなおさず先述した民主主義の大前提をゆるがし、つまるところ、民主主義を標榜する現憲法において、第43条第1項に規定する衆・参両議院(この場合参議院)が「全国民を代表する選挙された議員で構成」されているとはいえず、結果、その決議は憲法上ことごとく「無効」になるといえます。

 自民党と茶坊主公明党は、投票にそのような曖昧さを帯びさせるシステムをあえて法制化しようとしている。なんという民主主義の蹂躙!自民党ほかの与党連は、自分たちの無能な政権担当能力をむりやり延命させるために、つまり党利党略のためになりふりかまわず人気投票プラス芋づる当選方式を押し通そうとしている。まるで、ユーゴのミロシェビッチとどこがちがうのだろうか。彼は大統領という「個人」であったが、日本国の与党連は徹頭徹尾「集団」として、つまり理念なき日本型集団主義(「実体語(ホンネ)」である実利実益=権益をより永続的・安定的に獲得する手段としての集団化)に蟠踞して、ただひたすら手元の権力保持のためにのみ、あの手この手のうすぎたない手をうっている。

 さて、以前この匿名チャットで、意識的に投票しない選択肢もあると述べましたが、非拘束式名簿では連中のねらいどおりの圧勝をわざわざ手助けすることになります。したがって次期参院選では、長嶋さんの真の名誉と日本野球および民主主義の発展のために、長嶋さんにだけは投票しない! という強い決意で投票所に出向くことが必要でしょう(^_^;; ほんとの巨人ファンだったら、やっぱり野球人としての長嶋さんでいてもらいたいですよね。全国あまたの巨人ファンの方々には、ここでグッとふんばってほしいものです。


目次へ       「社会時評」へ
 

2001年の参院選
--- 与党連は自ら掘った墓穴に埋められる! ---

          

1 権力に妄執する小人たちは憲法すら踏みにじる

 (1)  非拘束式名簿による選挙方法は憲法違反だ

 2001年の参院選から、非拘束名簿による代表者選出(参院比例代表区において、投票時に立候補者名か政党名かのいずれか一方を記入(併記しても有効)。それらの合計がドント方式(※)なる単純な割り算によって各政党に議席数が割り当てられ、個人得票の多い順から当選する仕組み。つまり、立候補者個人の人気と政党信任の合わせ技で議席枠を拡大し、それぞれ得票の多いものから順に当選していく方式)が実施されることになった。

 しかし結論から言えば、この方式は憲法違反であり、それによって選出された議員は「正当に選挙された国会における代表者」(憲法前文冒頭)とはいえない。したがって、参議院は「全国民を代表する選挙された議員で構成」(第43条第1項)されているとはいえず、憲法違反は明白だ。

 どうしても個人への直接投票を実施したければ、一枚の投票用紙にどちらかを任意に書き込むのではなく、それぞれ別個に独立して投票を行うべきだ。なぜなら全国区の個人立候補者への一票は、地方議員の選出同様あくまで国会へ送り込む代表者の直接選出であるからだ。そして、個人への投票である以上その票は、たとえ何百万票勝ち取ったとしてもその候補者個人の得票としてのみ有効だ。

 個人立候補者の得票を含めた政党としての合計票がその党内の当選枠の基礎になるというシステムは、個人得票と政党信任票の根本的な違いを無視した非常に無謀で粗野な得票の評価方法といわざるをえない。個人への投票を含んだ合計得票によって党内の当選枠が広がり、結果、同党の他の下位候補者がそれによって当選を獲得するなど、本質的に容認できないことなのだ。

 (2) 非拘束式名簿方式には基本的な欠陥がある

 理由は、この投票システムに基本的な欠陥が内在するからだ。有権者が選択し記入した比例全国区の個人立候補者への一票は、これが政党の全体得票数に合流した時点で、他の特定不能な候補者まで(特定不能であるがゆえに)投票の意思表示を行なえないにもかかわらず、知らないうちに投票してしまった結果になるからだ。これを「投票の横流」しという。「おかしい(=怪しい)」システムなことは、一目瞭然だ。

 一方、政党への投票はあくまで信任投票だ。それこそ「顔の見える」個人への投票と同列に扱うことはできない。 政党名による投票は政党への信任であるため、政策はもとよりその党内においてあらかじめ選んだ名簿上の被選挙人に対しても、もちろん信任しているのだ。

 しかし、個人立候補者となると事態はまったく異なってくる。これらは、どちらかを選択できるといったことがらではない。比例全国区の個人立候補者への一票は、地方議員の選出同様あくまで国会へ送り込む代表者の直接選出であるからだ。有権者は投票しようとする立候補者個人(の政策実行予約=公約)に対して一票を投じたのであり、政党への信任票を投じたとみなすことはできない。これは有権者個人から候補者個人への投票を、投票した途端特定の党(政治団体)へ投票したことに「すり替え」たものであり、有権者の意思を一意的に反映したものとはいえない。この点で明らかに違憲といわざるをえない。

 政党への投票はあくまで政党への信任票として実施すべきものであるが、全国区レベルの個人立候補者制を復活するのであれば、政党信任を行なう必要がない。なぜなら、参議院議員も衆議院議員同様、あくまで個人の政治公約を支持された有権者の代表として国会へ赴くのが憲法の趣旨にかなっている。 後でもふれるが、拘束名簿式を基とする政党への信任投票は金のかからない選挙への便宜的措置なのだ。

 したがって、個人への投票である以上その票は、たとえ何百万票獲得したとしてもその候補者個人(の政治公約)への支持票としてのみ有効であり、金のかからない選挙として便宜的に行なっている政党への信任投票に流用することはできない。要するに、政党の得票として合算することは、もともとできないことなのだ。

 (3) 主役は職業政治家たちではなくわたしたち一人ひとりだ

 選挙の主役はあくまで国民一人ひとりだ。その主役の意思表示が不完全だとするなら、この選挙(投票)システムはそれだけで前述の憲法違反となる。したがって、個人票が政党の投票枠を広げ、結果として他の候補者を当選させることは、投票の不明朗な扱いにほかならず、一票のもつ意味と価値を歪曲し、国民の選挙権そのものをはなはだしく蹂躙をしているのだ。何度も言うように、明らかに違憲なのだ。

 どうしても「個人得票を持ち出したいのであれば、あくまで全候補者の最多得票者数から順次、定員までくだっていって当選させればよいことであり、これを政党という政治団体への信任投票と合算すること自体が、投票に対する許しがたい欺瞞となっている。このことはすなわち、自民党ほかの与党連が、長嶋茂雄などの超有名人を立てれば人気投票よろしく喜んで投票するに違いない、と 国民は頭から愚民扱いしていることのなりよりの証拠といえる。権力と既得権益にしがみつく自分たちこそが、救いがたいほど愚民であることを如実に示す好例でもある。

 

3 サイレント・マジョリティは冷ややかに嗤っている

 国民は、とくにわたしたちサイレント・マジョリティは、そのような見え透いた子どもだましの手にはのらない。わたしたちは、いまこの国の「民主主義」が、愚昧愚劣な為政者どもによって蹂躙されつつあるのを見過ごしはしない。結局のところ、次期参院選でも、どんな超有名人を立てても自民党ほかの与党連は惨敗するだろう。なぜなら、今回の低レベルな騒動を目の当たりにして、いよいよ政府は官僚ともども信用できず、ますます大衆操作にのってはならないと自覚を深めているからだ。

 わたしたちサイレント・マジョリティは、日本が自力で民主化を図っていくうえでの自民党からの思いもかけない「プレゼント」だと思っている。今回の騒動は、世界中いたることろに見られる軟弱な権力の悪あがきの一種にすぎない。要するに、権力・権益にいつまでもしがみつこうとする強欲な政治屋どもの苦し紛れの悪あがきにすぎず、あがけばあがくほど自分の首を絞めていることに気づいていない。それほど低劣で無能で強欲な寄合い所帯であることをいやというほど見せつけている。

 彼らは財政赤字を700兆円以上に膨らませ、なおかつ膨らませ続けている張本人であり、与党連は政治的に無能な烏合の衆である。いや、無能だけではない。アメリカに国を売った売国奴でもある(詳しくは、副島隆彦氏の『堕ちよ! 日本経済』を参照されたい)。死に体の日本国からチュウチュウとまだわずかに残っている生き血をすすっている。とくに亀井静香などは顔中血だらけにして吸いまくっている。

 

4 野党はこの危機を一大チャンスに変えよ

 野党連は、この選挙システムの論理的な矛盾(票の横流しは違憲の疑いが濃厚であること)と与党連の真の狙い(侮蔑的な愚民政策による権力維持)をあらゆる機会と手段を通じて徹底的に公表・弾劾し、次期参院選までに広く国民の周知するところとしなければならない。これは国会報告活動の一環でもある。

 また、選挙戦においては知名度の高い堂々たる個人候補者を立てて、「与党連の議席を切り崩し底の浅い野望をくじくために良識の府へ送り込んでほしい」と訴えるべきだ。違憲問題の決着は、その後の国会で公選法の再改正(非拘束式名簿制の廃止)というかたちで決着をつければよい。

 さて、もしわたしたちサイレント・マジョリティの予想に反して、与党連の目論見どおり、有権者の多くが「人気投票」におどって連中が勝利したとするなら、残念ながらその時は、日本人は自ら民主主義を勝ち取る好機(選挙による無血の民主化闘争=自民党・公明党などを政権の座から追い落とすこと)を棄てたことになる。そして、これからも日本に「国民」は存在せず、これからも日本は「国民国家」でないことを自分たちの手で決めたことにもなる。やさしく言えば、ずっと愚民でいる道を選んだということになる。

 

5 インターネットによる直接参政の府を設置せよ

 ここで選挙の話にもどるが、本来なら、たとえ人気投票の側面が強くなっても、個人立候補者への直接投票のみによる選挙が望ましい。しかし、それには金がかかりすぎる(「全国区」=「銭酷区」の反省)として、政党信任による拘束名簿式が制度化されたわけだが、周知のように参議院がもはや「良識の府」とはいえず、有名タレントと衆議院議員になりそこねた地方ボスの寄り合い所帯であることからすれば、参議院の存在意義は極めて乏しい。

 この際参議院そのものを廃止して住民投票をベースとした直接参政の場を創設するような、根本的な制度改正が必要だ。その際に威力を発揮する参政メディアはもちろんインターネットだ。インターネットは、eマネーのためだけでなく民主主義の発展のためにも有効活用しなければならない。

 

(※)ドント方式の詳しい説明は、http://www.sangiin.go.jp/japanese/qa/qa6e.htm をご覧ください。

 


目次へ       「社会時評」へ