(目 次)
ところで、きのう1/10はNHK教育でながながと教育問題について議論していましたね。生徒達はほとんど全員犠牲者かなって感じ。教師達はまじめな人ほど可愛そうって感じ。管理職(校長・教頭)は、教育委員会のイエスマンやっときゃいいから、直接責任とる(=辞職・降格・減俸・陳謝など)ことって稀にしかない。それにもともと責任逃れのうまい人たちだから、深刻そうな顔つきの割にはけっこうお気楽な感じ。 教育委員会は文部省のお達しだからの一言で片づければいいから、楽なもんです。
では、文部省はというと、戦後復興という大義のもとに、従順で知能の高い若者をブロイラーのようにひたすら肥育し、大中の企業に提供してきた。 戦後の焼け跡の中で成人したこの国の立役者達とまだ豊とはいえない中で大人になった団塊の世代は、可愛いわが子には同じ苦労はさせたくないと 「従順で知能の高い産業戦士」の生産路線に沿って、より教養をではなく、より学力を付けさせようと願った。寄らば大樹の大企業(または高級官僚)を目指して。年功序列と終身雇用という協働共同体への参入を目指して。そして、親の願いに答えるべく?、けなげな子供たちの受験地獄は加熱していった。当然のように塾が繁盛し始めた。今では、深夜1時にパパやママがクルマで塾まで迎えに行く状態。子供も親も疲れている。多くのまじめな教師たちも疲れ切り、途方に暮れている。しかし、管理職らは見て見ぬふり。
つまり、これがK.v.ウォルフレンのいう「日本というシステム」の顕著な例です。教育部門の最高責任者であるべき文部大臣は1〜2年程度で猿回しのようにクルクル変わる。つまり、だれもまともに責任をとらない無責任システム。これこそ中心の空洞化した集団主義。要するに、教育の抱える問題こそ、「和」のイデオロギーの具現化(談合や派閥もその例)したなかでももっとも悲惨なものです。
例によって、ではどうするか。ポイントは、企業の人材募集と処遇に対する伝統的な方針を契約型に変えること。そして結局のところ、雇用の流動化を図ることです。これが中長期的な課題です。では、緊急な課題はなにか。中学カリキュラムの抜本的な改定と高校入試の廃止。高校は技能訓練校化する。つまり、インターン制の完全実施ですね。そして、18歳で就職。もっと学びたい者(遊びたい者も)は大検を受けて、大学進学してもよいが、その頃には雇用の流動化も進んでいるはずだから、名門大学を出ましたっていう箱入り娘や息子では通用しなくなっている。それをわきまえての進学ということになる。
要するに問題なのは、企業による人買い方式をベースとした均質的ブロイラー的労働者予備軍の生産方式なんですね。この意味において、ぼくは国(文部省)に責任があるのはもちろんですが、企業側にも責任があるといいたい。したがって、財界(日経連、経団連、経済同友会)は、企業の自己改革を含めた労働市場の開放と積極的な流動化を擁護しなければならない、と強く思います。それが、彼らの正しい責任の取り方というものでしょう。
文部省の責任の取り方は、義務教育プログラムの抜本的な見直しをすぐに始めることです。つまり、個の確立を目指す教育に180度転換すること。そのための取り組みとして、ディベート教育を徹底して行うこと。これは、論ばく型と目的追究型の両面で徹底すること。それから、英語を文法解析機能力ではなく実践会話に切り替えて徹底指導すること。さらに、日本の歴史教育を古代から現代まで詳細に行うこと。そして、個性伸長のために、スポーツ・芸術・奉仕活動を強力に支援すること。従来の学力選抜については、研究者・教師以外については、(雇用の流動化の進展により)労多くしてメリットがない方向を目指すこと。これが具体的責任のとりかたでしょう。
じつはこの方向で行く場合の中高校生の偶し方に、もう一つ重要な分野があります。これは、リストラ・倒産中高年失業者の再就労プログラムと基本的には同じものです。これについては後日詳述します。なお、インターン制度はすくなくとも連続6ヶ月以上のタームがなければなりません。のぞき見程度ではねえ。バイト? OKですよ。でも、同一職場に6月連続して勤務すること。コロコロ変わるようでは、単位はやれず(単位制導入が前提)、高校中退ということにもなるでしょう。それだったら、最初からどこかに就職したほうがいいかも(^ ^)
いの >
そうですか。ここでのチャットを基本にして頂けるようなら、毎日の積み重ねおよび対話による、いわゆる
「シナジー」効果が期待できます。やはり一人でじっと黙考もいいですが、働きながら考える、歩きつつ考える、これが小生には合っているようです。生活者の時代ですからね。実業家もサラリーマンも官僚もみな、自分が生活していく立場でものを考えたらよいのです。
今までは、みな私生活が貧しくて、個人的な立場よりも、公的な立場で発言していました。そうするとXマーケットインでなくプロダクアウトの発想になる。すなわち企業やお役所とか自分の仕事の立場で、ものを言うものだから、しかたがないと言いたい事も我慢したり、たまに発言しても、訳のわからない論旨不明瞭な
奥歯にものが挟まったような言い方になるのです。ですから役所のサービスをしている人であっても、サービスを受ける立場で、それなりに言いたいことを言う方がずっと良いと考えます。
そうです。勤務先の立場「○×会社の何某」でなく、「〜ちゃんの父」として堂々と発言すべきではないでしょうか。企業にしても役所にしても学校もすべて「相対評価」の世界です。「〜ちゃんの父」はなんと世界でたった一人です。組織人としてでなく家庭人として発言すれば、その人は「絶対評価」の世界へと、一躍「飛翔」です。私にこの事実を教えてくれたITの世界、白鳥社の世界に「乾杯」です。(^-^)
教育の在り方についても、この「絶対評価の世界」をキーワードに各種問題を解けそうな気がします。教育も画一的な基準での出口の知れない蟻地獄のような「相対評価」でなく、オリジナルな例えば英語検定の様な「絶対評価」
これを元に単位認定もあります。会社でも、公的資格や専門職などの「絶対評価」をもっと高く評価すべきでしょう。何しろ社会は高度化、多角化しています。
評価で思うのは、学校教育ももっと社会的な評価を受けるべきではないでしょうか。社会的評価とは?なんで社会的評価かと言いますと、学校教育も公立であれば、税金という対価をもらって行われる、公的なサービスの一種なわけです。最近の商品学の考えからいきますと、モノだけでなくコトも商品なのです。
つまり学校教育も「教えるコト」という商品なのです。今まで学校教育という商品は、お役所の、端的に言えば、文部省が勝手に決めて押し付けしている「プロダクトアウト」の、言い替えれば、使う側からの声はお構いなしの生産者の時代の遺物なのです。ですから違和感のある子ども達は、登校拒否するのです。
> 景
いの >
学校という組織と、警察という組織の民主化がもっと必要ではないかと考えています。その考えの背景には、あちこちから、漏れ聞こえる教師と警察官の嘆きですね。何を嘆いているか? つまり教師ならば、お達しだけの職員会議であり、警察官ならば、不祥事の連帯責任の人事風土です。
やはりこの2種の官僚組織は、「聖職」という社会的意識が強すぎて、「公的サービス」と社会的意識は ほとんどないのです。この辺りの日本的無意識の源を探れば、面白いでしょうね。追求を受けた国会議員でも警察の捜査を答弁よりも評価するお国柄です。
日本は警察というのはそんなに権威があるのかと思いますが、ここほど情報公開の必要な役所も他にはないのかもしれません。 良心的な警察官も先生も、社会的な「自己イメージ」と闘いながら、組織内権威とも闘わねばなりません。
この両組織の会議は、おそらく「上からの伝達」中心で、「下からの報告」は少ないのでしょう。これはやはり法による会議が必要です(笑) ブレーンストーミングによるアイデアの創出とKJ
法独特のまとめのやり方で、先生達の意識改革ができることでしょう。 それからぼく達「国民」の学校教育の意識改革をはかるべきです。
つまり学校教育は公的サービスであり、国鉄の民営化で、JRのサービスが 飛躍的に改善したことも、併せて思い起こすべきではないでしょうか。学校教育は無償のサービス…ですが。
父兄と先生の意識改革を進めれば、先生の言われる学校現場の「自主性」が育ちましょう。
それからいじめ問題の対策として、「演劇」を活用している先生の取り組みに、注目しています。演劇は何しろ、自己表現であり、スピーチであり、「自己と他者」の役割をお互いが演じることにより、他者の気持ちを理解できる様になるのではないかと期待しています。これはディベート教育とも通じるものがありそうです。
> 景
ディベート教育においても、従来型の賛成派vs反対派といった二グループに分けた討論形式よりも、ある問題に対して出てきた複数の結論に対して、自説の結論導出過程まで踏み込んで他の陣営とのアプローチの違いを際立たせ、自説の正しさ・正当性を主張する、というタイプが理想的だと思います。賛成であれ反対であれ、その結論を充分呑み込めないまま自説としての「正しさ」を主張し、相手側を論破しようとするのは、算数や数学同様ゲーム的な「頭の体操」にはなっても、思ったほどの収穫はないんじゃないでしょうか。
というのも、ある問題提起に対して論理的な思考によって結論に到達するという、前段のもっとも大事な過程が抜けているからです。つまり、与えられた問題に対する与えられた結論での議論ではなく、自ら考え、結論し、そのうえで堂々と主張し、反対論に対して論ばくする、という一連のプロセスのなかでの議論の応酬があって、はじめて意味のある(教育的効果の高い)ディベートとなるのではないかと思います。
それから、ディベートには、このような論ばくタイプ(法廷闘争型)だけでなく、目的追求型の討論もあると思います。先の例でいえば、ある問題の解決法について、みんながそれぞれ意見を出し合い、その意見の理由を説明するとともに、他者の意見の賛成部分・反対部分に対する見解(いわゆる批判)を表明しながら、自説がその問題の解決策としてより優れていることを主張する。この方法はディベートとは言わず、しかも、教育現場ですでに広く使われているかも知れませんが、もしそうだとすれば、もっともっとこの手の指導に時間を割いて欲しいと思います。
ディベートにせよ、単なる討論にせよ、詰込み授業に押されて時間的に(内容的にも?)不十分な状態だと思います。いずれにせよ、詰込み授業が、 そして文部省の詰込み教育重偏重のカリキュラムが、今日の教育現場の「荒廃」の主な原因でありますから、 ある程度インプットしたら、体育・音楽・図工(美術)・英語会話・演劇・創作舞踊・奉仕活動などでバランスよくアウトプット(自己表現=個性の発現)をする。そのようにカリキュラムを組まなくてはならない。 ペーパーテストによるアウトプットは「必要悪」と考えるべきです。それは当面、塾に任せておけばよいでしょう。
それから、警察の件。いのさんの「追求を受けた国会議員でも警察の捜査を答弁よりも評価する」という点に ついては、国民(の一部)を代表した議員は、違法行為を疑われたとき、それを明確に証拠をもって否定する義務が議員の側に生じる(いわゆる「挙証責任」は議員の側にある)とされているようです。ここらあたりの事情については、『日本国民に告ぐ』小室直樹著(クレスト社)に詳しく述べられています。ひょっとしたら、いのさんの言いたいことと違うかも知れませんが、そのときは、コメントをお願いしますです(^ ^;;
ただ、それとは別に、 警察のもつ特有の閉鎖性?というか「におい」みたいなものがありますよね。たぶんあれは、日ごろ犯罪者を相手にし、 その探索に奔走し、その結果、数多くの個人情報を入手していることからくる秘密主義によるものではないかと思います。 この機構(警察という組織体)に対する情報公開は両刃の剣のうような微妙なところがあるので、ここで云々するのは避けたいと思います。ぼくたちの気まじめな放言(笑)も、例のアダルトページのパトロールのついでにその筋からの チェックを受けているかも知れないし(爆笑)
ま、それはさておき、この問題提起は国家の公安活動に対して国民の「知る権利」の発動がどこまで可能か、という非常に根源的な、まさに国民国家存立のツボを捉えた問題になってくるので、充分な熟考としっかりした論理体系が必要となるでしょう。しかも、このての問題は、オーソライズされた見解によることなく、自分自身で納得のゆくまで考えたうえで開陳しないといけない気がします。これに比べれば、自衛隊の問題のほうがまだ「底が浅い 」と思いますよ 。
いの >
さて、目的追求型討論というのは、どんなものでしょうか。もっと詳しく御説を拝聴させて下さい。自分なり経験に照らして、関連しそうな事を申し述べますと、本当に討論は「聞く」
つまり単に相手の話を表面的に知的に理解する部分だけでなく、「聴く」態度、すなわち相手の身になって、共感的に傾聴する 態度なしには、実のりのある討論はできないのではないでしょうか。つまり共感的理解のない討論は「言い合い」になってしまう。それこそ、景先生の言う「その結論をのみこめないまま自説を主張」ということになってしまうのではないでしょうか。
そういった討論を野球に例えますと、野球はキャッチボールができないと成立しない、それと同様に、討論の基本は「スピーチ」 だと考えています。スピーチの素晴しさを知らない人は、その教育効果に、大人子ども関係く驚くことでしょう。
なぜならスピーチではたった一人の話に全員が耳を傾けるのですから。これはすごい教育的効果がありますよ。つまりスピーチを継続していくと、聞く側に、共感的に傾聴する態度が養成されていくのです。これは不思議です。
> 景
いのさんのいう「国民の心に『武士的人間像』を国民の人間モデルとして推奨してやまない」というこの国の、侍という刃物を持った「管理者たち」への恭順をマインドコントロールする傾向は、明治以来まったくかわるところがありませんね。心の封建主義は今も続いているというべきでしょう。かつてのごくひと握りの軍事政権側の管理者たちを日本歴史の普遍的な主役であるかのように位置づけるのは、歴史観の大きな誤りです。多数の名もなく教養もない百姓と、多数とまではいかないが、平安時代以降は商人や職人たちの確かな存在もあった。これらの圧倒的多数の人々を歴史的資料が乏しいという(いい加減な)理由で、日本歴史の表舞台から締め出しているのは非常に問題です。民衆史こそ力して発掘すべきものだし、現在と未来の子どもたちに確かな遺産として手渡していくべきものと考えます。
平安末期以降、戦前まで延々と続いた事実上の軍事政権とその指導者層に関する自慢話であるかのような歴史観をいくら教えても、またまた好戦的な国家観を植え付けるだけです。今の子どもたちには、日本国へのアイデンティティとして、 詳細な(事柄の羅列でない)歴史教育が必要と考えますが、その際に肝要なのは、名もなく教養もない民衆は、すぐれた「知恵」をもっていたということ。この事実を時代背景に応じて、当時の農作業や土木工事等の具体的な事例にあたりながら、子どもたちに正確に教えていくことです。武力集団の領土拡張と権力闘争の系譜は二義的な問題です。
ぼくの郷土で誇れるもののひとつに矢部町の通潤橋があります。サイホン式水路を兼ねたアーチ型の美しい石橋です。今ではすばらしい文化財となっています。日本歴史は、過去を生きた民衆のこのようなすばらしい「知恵」の結晶を編綴し、未来を生きる子どもたちの「心の古郷(ふるさと)」となるように教育すべきです。武力集団による戦いの歴史はそれを過度に美化することなく、あの封建時代の統治上の「必要悪」として、その現実と背景をありのままに再現すれば充分でしょう。