(目 次)
日本はいま(1998.夏)、「デフレーション」という不況下にあるという。つまり、こいうことなのだろう。
バブル崩壊による地価下落、土地神話崩壊による「経済価値」そのものへの不信感が生まれた。また、低金利のために、蓄財という将来に向かっての楽しみもない。
その一方で、民間企業の就労者にはリストラの不安、企業の突然死への不安がある。このまま失業率が増えていけば、公務員にもリストラの突風が吹きつけるだろう。しかも、日本型の終身雇用制が労働市場の流動化を阻害し、これがサラリーマンの不安を倍加している。加えて、将来の年金低額支給からくる老後の不安感も根強いものがある。
そこで頼れるものはというと、株は全く危ないし、金も低落気味で、ドルも怪しいときているから、いまのところ日銀券(日本のお金)しかない。ならば、低金利でもタンス預金よりマシだから、銀行に預けきりで使わないでもっておこう。そして、見通しのきかない将来のまさかの時のために取っておこう。生活に必要なものはいちおうそろっているから、安売りの時をまって買えばいい。これが、消費者の買い控え(買い渋り)心理である。これによって、個人消費が伸び悩み、値下げしないと売れないというミクロレベルのデフレ圧力が生じている。
さらに、これ加えて、バブルの崩壊で抱え込んだ不良債権の処理からくるバンクの貸し渋りが大量の失業者を生み出しつつあるとともに、企業も設備投資を抑えているため、それが地価の低迷をあおっており、総じてマクロレベルでの景気後退の主因となっている。つまり、現在の日本経済の特徴は、ミクロレベルでのデフレ圧力とマクロレベルでの大幅な景気後退が、地価の暴落と物価の低落によって、あたかもデフレスパイラルに陥っているかのような様相を呈しているところにある。
さらに厄介なことには、国際金融のグローバル・スタンダード化の名のもとに、あのウォール街に容易に資本移動がおこなわれる事態になったことである。しかも、その尖兵が、禿げ鷹ファンドの異名で知られるヘッジファンドときているから始末が悪い。ウォール街が資本移動を荒々しく欲望するかぎりこの世界的な混乱は続くだろうし、世界恐慌が現実のものとなる日も近いだろう。
(補足)
「バブルの崩壊で抱え込んだ不良債権の処理からくるバンクの貸し渋りが大量の失業者を生みつつあるとともに、企業も設備投資を抑えているため、それが地価の低迷をあおっており、総じてマクロレベルでの景気後退の主因となっている」とは、敷延すれば以下のようになる。
地価の低迷による景気後退とは、バブル以前の漸進的な地価上昇をベースとしたインフレ型の経済成長とそれに裏打ちされた景気浮揚感が、現在ではまったく頓挫しており、復活の兆しがないことを意味している。現在、政府は銀行救済の名のもとに、やっきになって日銀券を増刷しているが、これは政策的にインフレを狙ったものだ。
地価上昇による従来型のインフレ経済がポシャったので、(保証の裏付けのない)赤字国債をバックに(すでに紙切れでしかない)お札を何十兆円も市中にばらまくことでむりやりカネの価値を下げ、インフレ状態を作り出すことでかりそめの(物価上昇効果による)好況感を生み出そうとしている。しかし、その後に来るだろう財政と金融の致命的な破綻によるパニックを考えると、副島隆彦氏のいうように、これは危険な選択というほかない。
企業のリストラはそうとう深刻なわけですが、労働市場の自由化を図る点ではやむをえないプロセスかもしれません。実力主義ということは、会社側もより能力のある者を求めるわけですから、自然と労働市場は流動化しますよね。 そして、雇用者側もより適材適所におさまっていく。
これからの若い人にはこのほうがかえっていいんじゃないかと思いますね。問題なのはわれわれ中年(^^;; これからのお年寄りの時代を考えると、中高年を対象にした職種の開発が望まれますね。そこに一大労働市場が登場すると思うのですが。 ま、いずれにせよ、労働市場の自由化こそが今のデフレ不況を克服する起爆剤になるでしょう。そのためにはどの企業も年功序列制などきっぱり捨てることでしょう。そして、その先鞭をつけるのが、霞が関を頂点とした国・県・市町村の公務員職でしょうね。でないと、いくら公金をつぎ込んでもムダです。
労働市場の自由化・流動化と起業のよりいっそうの支援。これがもっとも強く望まれるところですね。で、国民の金融資産1200兆円を当て込んだ途方もない赤字国債の発行は、銀行の不良債権処理の名のもとにゼネコン徳政令(銀行の債権放棄)になっただけ。国民の財布をくらいながら瀕死の象をいつまでも延命させているわけです。こんなことするより、潰れるものは潰れて、金融焼け野原からの再出発を志すことでしょうね。今ならまだ被害が少なくて済む。
金融制度がアメリカナイズされたところで、これからも極東の島国のなかで日本語を話して生きるかぎり、日本人の国民性が変わることはないでしょう。ディベートを積極導入しても、英語を第二国語にしても、です。なお、ここでいう「国民性」とは、中心の空洞化した集団主義的行動様式のことをさします。「中心の空洞化した集団主義的行動様式」とは、いわゆる「和の精神」のことです。このほうが分かりやすいですよね。
で、「中心の空洞化した」とは、権力中枢がカムフラージュされていることを意味してます。現行憲法の「象徴天皇制」がそのことを”象徴”しているわけです。そんなこと、言われんでもわかっとるわい! と言われそうですが、ぼくがここで言いたいのは、「和の精神」も統治者(または管理者)の統治者による統治のための一種の政治思想だということです。
かつての日本陸海軍ですか? もちろんですね、官僚制です。しかも、性質が悪いことには戦争屋の官僚だった。最悪です。それで、300万人もの人命が海やジャングルや海岸や市街地のなかで失われた。今回のマネー敗戦では、600兆円ものわたしたちの虎の子(預貯金)が、直接的には奪い去られます。直接手元にない金融資産まで合わせると1200兆円ですね。これをアメリカに資本移動される前に、預金封鎖とデノミ(新円切替え)と増税で国の膨大な赤字補てんにまわすのが最後のシナリオなんですね。
自民党政府の失政で300万人殺す代わりに1200兆円で破産国家の尻拭いをするわけです。このやり方は、明治以降すでに2回やっていますから、国家管理者達は慣れたものでしょう。ソフトランディングは、このハードランディングをいかにソフトに、スマートに、混乱少なくやるかのことなんですね。
金利・為替・株・ヘッジファンド・金融ビッグバン・国家財政の仕組みについてある程度の知識を持ち、同時代の先覚者の言挙げに謙虚に耳を傾ければ、いまこの国で起こっていること。そして、近い将来起こるであろうことが予測できます。そこで言えるのは、1999年は国家財政破綻宣言による預金封鎖(モラトリアム)と新円切換え(デノミネーション)そして消費税アップと財産税や人頭税などの新設による国民金融財産の吸い上げ。1200兆円のうち700兆円が現預金ですから、これを狙い撃ちします。
こうして、国の合計600兆円にも及ぶ赤字財政は一挙にペイされ、庶民は向こう5〜10年間の耐乏生活を強いられます。「清貧の生活」どころではありません。預金の引き出しは制限され、食料も一時的に配給制になるでしょう。土地持ちの資産家も一定以上の面積は召し上げ(取り上げ)られるかもしれません。いずれにせよ、もうこの国は破綻しているのですから、来年(1999年)来なくても再来年は来ますね。
おっしゃるように、小さな政府とベンチャー育成は正解ですね。それに、言い古されたことですが、ポストバブルの不良債権処理。それも金融システムの抜本的改革を目指した銀行業界の整理。これにともなって生じる大量の失業者対策については、青壮年層については労働市場の流動化を促進することになり、むしろ望ましい。
中高年層および能力不足の青壮年層については、別途に新規事業案があります(^ ^) これについては、考えをまとめたうえでいずれ提示します。そして、これからぼくが提示しようとしているこの国のあるべき姿のイメージは、この長すぎた「戦後復興体制」後のヴィジョンとして位置づけたいと思っています。ま、戦略レベルの話なので、持病の大言壮語には気をつけます(笑)
さて、いま述べた指摘や提案は、どこかの雑誌に学芸会と揶揄されたあの「経済戦略会議」も言っていることですが、これらは「あるべき姿」の話であって、実際に政府のやっていることは、財政改革ではなくて景気対策ですから、今回の次年度予算案をみてもわかるように、 財政赤字が600兆になろうが700兆になろうがかまわない。政策インフレという博打に賭けてうまくいったら200兆円かそれ以下にまで圧縮できる。あとの「不足」は…おわかりでしょう?
赤字はペイしないかぎり身の破滅(現状維持の破綻)しかありません。国とて一緒です。昔は戦争という暴力的冒険的略奪行為によってペイ(+アルファ)していました。いまは(少なくともこの国は)そんなことできません。老婆心ながら、製造業関係もそうそういつまでも「立派な体」とは言ってられない状況のようです。これは政府が高橋是清をまねて、下手に景気対策を選択したツケと思ってください。
もうひとつ、実態経済と「金融経済」を分離して別世界のようにように扱うことはもやは不可能な事態になっています。 まあ、意味がないというべきでしょうね。それほど甚大な影響力を後者は持っているんですよね。いまのところ、ぼくの述べているのは、同時代の先覚者の方々(小室直樹先生、副島隆彦氏、水野隆徳氏、太田晴雄氏など)の要約であり、ぼく自身の独創的なアイディアはほとんど含まれていません。ただ、これらのニアリー真実の知識をもとに、国家破産後の再建のための政治・教育・産業(労働市場自由化を含む)の抜本的刷新と国際社会への再デビューのための戦略およびいくつかの戦術を提示したいと思っています。
幸か不幸かこの国を生きている者としては、自分自身と家族と愛する人たちのともに生きているこの国を、ヒョッコリひょうたん島よろしくいつまでも勝手に漂流させるわけにはいきません。それにこの国はいま沈みゆくタイタニックの状況です。ビッグバンがさしずめ氷山との衝突といったところです。救命ボートを巡って恐ろしい争奪戦にならなければよいと思っています…。あるいは、北朝鮮征伐などというとんでもないことにならなければと、思っています。ロシアの軍事クーデターも起こる可能性が大ですから、これも日本の脅威にならなければと、市井の一サラリーマンでしかないわたしとしては、ただただそう願うばかりです。
日本国は国家デフォルトの後、韓国やタイのようにIMFの占領下におかれたほうが、まだましでしょう。300万人(あるいはそれ以上)の失業者は出ても、前回のような300万人の戦死者はでませんから。そして、また再建していくのです。「新しいスタイル」の国家として。
国レベルで声高に「ベンチャー出てこい!」って言うんだったら、国はまず産業界(および市場)の大掃除をしなくちゃならない。ジャングルの植生といっしょですよね。枯れた巨木は早く倒れてくれないと、新しい木の芽がでてこない。本田・井深・稲盛さんたちは、敗戦後の産業の一大転換期にベンチャー・ビジネスを立ち上げたからこそ大成功したのではないか。とすれば、いま全産業のリストラクチャリングやリエンジニアリングをやらないと、いくら行政が融資制度や補助制度を作ったって本末転倒ということになる。
じゃあ、「産業のリストラ」ってなんだい? ということになるんだけど、「企業は人なり」という命題が正しいとすれば、各企業は人材をがじめる(囲い込む)のではなくて、泳がせなくてはならない。それも、企業を超えて泳がせなくてなならない。そのなかで各企業は、よりよい人材を呼び込めるように自らを魅力ある活きのいい企業として、磨きをかけなければならない。つまり、雇われる側はもとより、雇う側も、年功序列型終身雇用制など要らない。しかも、大企業ほど要らない、ということに気づくべきでしょう。
国の手厚い看護で延命させてもらっているジジババ大企業は、そろそろ生命維持装置を外さないと国の将来をよりいっそう暗くくすんだものにするでしょう。そのとき、一時的に発生する更なる大量の失業者に対しては、当面最低生活の保障を国がする以外にないでしょう。銀行とゼネコン救済のための100兆円近い出費よりもはるかに安くつくはずです。しかし、ぶらぶらしてもらうわけにはいきませんから、3K〜4K的な体を張ったものを含めて大いに働いてもらわなくてはなりません。その不足分を保障するのです。
倒産・リストラ失業者の再就労案については、ちょっと刺激的ですが別に腹案があります。これは軽いノリでは発言できない問題なので、充分考えをまとめてからにします。
これからの高・高度な情報社会が世界中の主だった国に行き渡ると、世界をまたにかけて瞬時に取引きをする国際金融の部門でも、だれがイニシアティブを取るか、これが極めて重要な問題になります。この状況下で、もっとも国力のあるアメリカが「おれがグローバルスタンダードだ!」と息巻いているのが、こんにちの状況です。それに対して「アメリカなんかの成り上がり者に世界市場を好き勝手にはさせないぞ!」といって、強力な牽制をかけてきたのがEU(のユーロ)ですよね。円はといえば、アジア経済圏の独立を狙って円を基軸通貨にしようとしたが、アメリカにいとも簡単に潰された。あのクリントンとルービンに。最近また宮沢蔵相がちょっと切り口を変えて再トライしていますが、どうなるでしょうか。
リストラに関しては、アメリカはやるときは徹底してやる、ということでしょうね。業績がよいのに人員削減をするような会社はさすがにそう多くはないでしょう。あるとは聞いていますが、あまり派手にやったら、「最初からスリム化しておれば、もっと利潤を上げられたはずだ」と株主から追及されかねませんからね(笑)
それはさておき、「人を大切にする」という命題は洋の東西を問わず、資本主義を標榜している国の企業であれば、共通のものでしょうね。アメリカの企業はただ、雇用契約に基づいて個人個人にはっきりと目に見える実績を求めるので、日本のような、仲良し子良しの「甘ったるい」雰囲気のなかで、ナアナアで雇用を続けるようなロスはハナから認めないということでしょう。そこのところが、(この国の人々には)アメリカという国が実にドライに見える、ということなんでしょうね。
結局、今になって、そのロスを日本企業も清算し始めたとも言えるでしょう。つまり、日本型経営がそれだけ追いつめられているともいえるのではないでしょうか。もちろん、サラリーマンにとっては由々しい事態です。国はこういうときこそ、公金をふんだんに使って、倒産・リストラ失業者の生活保障と新規の雇用拡大政策を打ち出し、速やかに実施すべきです。それなのに、銀行とゼネコン救済を通じて、自民党の票田対策にしか公金(税金そのもの)をつぎこんでいない。これは非常に問題ですね。サラリーマンはもっと怒っていい。ぼくは怒っています。いのさんはどうですか。
ま、それはいいとして、(金融だけでなく製造部門の)大企業も将来のかじ取りに非常な不安を感じていることはありありとうかがえますね。いまのうちにできるだけスリム化しておこうと思っている。デフレ時代をどう生きぬくか、彼らシステムアドミニストレーターにはまだ明確なイメージができていないようです。能力不十分な者がそんな地位にいるのは、(本人も含めて)すべての人々にとって不幸なことです。というのも、「将来がよく見えないから、とりあえず余剰人員を整理しておこう」程度の考えだからです。つまり、日本の企業も日ごろ口では優しいことを言っても「切るときゃバッサリ切る」わけで、そこらあたりはアメリカと一緒、というより世界共通でしょうね。もはや寄らば大樹も通用しない時代になりました。
いまでも、この国はタイタニックのように船体がきしんで、浸水が激しく、しだいに沈みつつあるわけですが、それでも、われわれサラリーマンは外国へハイ、サイナラと高飛びするほどの金も度胸もないから、会社に、そしてこの国にしがみついているほかない。船長も航海士も機関士もまとまっているようで、てんでバラバラで、和の精神が聞いてあきれるのですが、それでもわれわれはしがいみついているほかない。外国は日本が沈没するのを待って、金目のものを引き上げる時機をうかかがっている。
この雰囲気から察するに、世界的な不況のつけを日本の資産を(海外法人の接収も含めて)むしりとることで、チャラにしようとしている、…なんて被害妄想めいた考えも 頭の隅をよぎります。日本国内の金融焼け野が原だけですめばまだましといった感じです。
ぼくがいまlonlyに叫んでいるのは、このような恐るべき状況(真の危機)がほの見えるからです。新円切り替えとデノミ、そして富裕税や人頭税などの増税で700兆円の財政赤字をペイしようとしても、この段階ではすでに製造業も含めて経済機構そのものが崩壊していますから、立ち直ることなどできません。やはりIMFが乗り込んでくるでしょう。あるいはブラジルのように、禿鷹ファンドの息のかかった男(この場合日本人のだれか)を日銀総裁にすえるなどして、沈没船の引き揚げと解体作業をはじめるでしょう。この時点で、日本は外国資本に事実上「占領」されます。
したがって、何度もいうように、2001年の「ビッグバン完全実施」をのんびり待つのではなく、今すぐグローバルスタンダードに衣替えし、その延長線上でもちまえの集団主義の機能的な面(高濃度の意思の疎通による柔軟な分業体制など)を発揮し、欧米を凌ぐより付加価値の高い、しなやかで堅牢なシステムをつくりあげていかなくてはなりません。日本にそれができないはずがない。そして、その途しか残されていません。今のナマクラなやり方は、せいぜい沈没までの時間を引き延ばしているだけであり、このままではいずれ、ウォール街の禿鷹どもの餌食になるだけです。リエンジニアリングはここでも必要とされるのです。
公共事業(公共建設工事)はそれ自体「生産」はしない。工作物を設置するのみである。いわゆる公共サービスの基盤整備にほかならない。したがって、商品流通を生じないため、「生産〜流通」を基礎とした市場活動から離れたところにある。公共事業におけるこのような活動部門財政済学上は「公共部門」と呼んでいるが、その経済的効果は、財政出動の果実がそれらの事業の業界人の懐に落ち、その一部が消費に充てられ、多くは設備投資に回されるところにある。しかし、このデフレ不況の時代には、それらの業界を中心とした消費活動による内需拡大効果は期待できない。
設備投資に関しては、建設資機材の需要が伸びるため、その供給のための生産活動と調達時の取引が経済活動の活性化に直接寄与しているとはいえる。しかし、それが株高を推し進め、他産業の設備投資も促して産業界全体の好況感を惹起するとはいいがたい。その活性化はせいぜいのところ、600万人以上を要する国内建設業界の経済圏(国内需要)の範疇にとどまり、公共事業に関連した建設業界とその融資元の金融機関の好況感を招来するにとどまる。
なぜ、強力な景気の牽引力とならないか。より広範な生産と消費そしてそれをジョイントする流通が一連の系として同時に活性化する「経済活動」でないかぎり、景気浮揚または回復がなされたとはいえないからである。実体経済が極めて巨大化している今、公共事業という生産のための生産活動は、もはやパワー不足の機関車である。
ところで、産業廃棄物処理業はほんらい民間事業にはなじまない。公営事業で運営すべきものである。
(理由)
1 それ自体は「生産」を行わない。
したがって、公共事業とおなじく「生産〜流通」を基礎とした市場活動から離れている。
2 さらに、公共事業と異なり、工作物製造と設置にともなう二次的な経済波及効果もない。
3 しかし、産業廃棄物の処理自体はますます必要となっている。
4 その一方で、生活環境や自然環境の保全に充分努めなくてはならない。
以上の観点から、1と2において、民間事業として扱わなくてはならない理由はない(経済活動としての重要性はない)。3と4において、公共性、公益性及び環境面での規制の必要性はきわめて高い。したがって、民間事業に委ねるのではなく、公共事業として公営企業体において運営しなければならない性質の業種である。
う〜む、規制の問題ですね。規制といってもさまざまな分野で、いろんな形のものがあるのでしょうが、 的を経済活動(とりわけ生産・流通・販売(貿易を含む)の3局面)に絞って考えれば、これまた小室先生のおっしゃる資本主義市場(自由市場または完全競争市場ともいう)の4つの成立条件を阻害する「規制」は、即刻撤廃すべきでしょう。
4つの条件とは、1:財の同質性、2:需要者・供給者の多数性、3:完全情報、4:参入と退出の自由、です。先のクロネコヤマトの例では、2が規制によって阻害されています。その他、銀行の延命策(公的資金注入など)は4を蹂躙し、また、その愚策の淵源は、1から4すべてにまたがる大蔵省の銀行保護政策(規制の塊ですね)に発しています。
ここでまた話が飛躍しますが、この4つの条件を充たすべく努力中のものが、米欧主導のあのグロスタなんですね。要するに、国際(金融)市場を完全競争市場に染め上げてしまいたいわけです。でも、そのやり方が強引で、ウォール街のカネの亡者ども(とくにヘッジファンド)を操って(あるいは操られて)、暴力的な国家間の資本移動をやってのけています。アメリカのこの暴挙には新国家EU(建国プロセスでちょっともめてますが)も相当警戒しているようです。日本はそんなEUにすり寄って、アメリカの手ひどい仕打ちから逃れようともがいていますが、いかんせん、思いやり予算を毎年7兆円もやって 防衛をまかせっきりですから、属国のしがらみから抜け出ることができません。
アメリカから強要された低金利政策(85年プラザ合意)からバブルを招来し、バブル破裂後もアメリカの景気を支えるために「超」低金利政策を採らざるをえず、 財源不足のために消費税率アップをしたことでますます景気を悪化させながら、景気対策といって巨額の赤字国債を乱発に突く乱発。銀行も潰すべきものを潰さないでおいて、公的資本という税金(もはや償還の目処のない赤字国債)をバンクにじゃぶじゃぶと無理やり呑ませておいて、倒すべきゼネコンをも生き延びさせている。
この行状はほとんどキチガイ沙汰の有り様で、(国債の)長期金利が上がる(相対的に国債の価値そのものが下がる)のは当然のこと。あわてふためいた政府と大蔵は、赤字国債の日銀引き受け(「価値」の担保のない=万札刷りまくりの=青天井のインフレをもたらす愚劣きわまりない金融緩和政策)または無制限な買い切りオペレーション(買いオペ=市場に出回った国債の買い占め)を日銀に強要した。
困った速水総裁さんは、なんとゼロ金利政策(短期金利をゼロに近づけて、貯蓄してもムダですよ。お金を借りてドンドン使いなさい、という誘導施策。企業とくにゼネコンにはありがたい施策)をとった。その結果、短期利回り市場の資金が愛想をつかしてやむなく株へ流れ、な、な、なんと株価が上昇し始めた! この現象を見て、御用学者は景気が回復基調にのったなどと吹聴しはじめた。でも、このわずかな株価上昇は、この国の迷走を象徴しているだけなんですがねえ。
とまあ、こんなムチャクチャな、とても資本主義のお国でござい!とはいえないこの国で、太田晴雄氏のいう明治維新後第3回目の「金融封鎖」の日は近いという感じが、ますますしてきましたね。ま、この国が、M・ウェーバーのいう「近代資本主義」をほんとうに追求しているのであれば、不要な規制はそもそもしていなかっただろうし、バブル花盛りまでの「成長神話」に踊り狂って世界市場をあらしまわり、そのつけとして今、「近代資本主義」の基本条件を備えた米欧主導のグローバル・スタンダードに打ちのめされることもなかったでしょう。
日本はこれから、せいぜい微・成長の資本主義経済社会を生き抜いていかなければなりません。このままですと長期的には痩せていきます。しかし今のところは、かつての小錦からいくらかスリムになったKONISHIKI程度ですから、リエンジニアリングの手法によって、 大胆な平成の国家改造(ほとんど革命に近い)を行えば、俊足のアスリートのようになれるかも知れません(笑) でも、この国は自力では変わることができないので、このまま国富(主として国民の金融資産)を食いつぶしながら、 日本海溝の底までこけていくのが、現実というものでしょう(涙)
余談ですが、国のリエンジニアリング(=革命)に当たっては、 太田氏の危惧する「預金封鎖+新円切換(デノミ)+新税導入も含めた極端な増税」(これを国家デフォルトと呼びます)から出発することになるでしょう。と、ここで突然ですが、ヤポンはポスト・デフォルトにおける新国家像のシミュレーションでもあります(笑) やっと、笑いが出ましたね。よかった、よかった。ヤポンでは、胸に「グロスタ」とプリントしたTシャツが流行っているかもしれません。でも、髪をゴールドに染めるくらいだから、たいして抵抗はないかも(笑) 抵抗あるのはいつの世も、老人たちとわれわれ中高年でしょう(爆)
でも、「国民」国家の観点から日本の歴史を「肯定的」に解釈し直し、新国家の基礎となる理念を確かなものにしておく必要はあります。 この歴史観のアウトラインについては、これからじっくり考えてみます。なお、言い忘れましたが、国家デフォルトの際には、事をここまでひどくした近・過去と現在の国家経営最高責任者及びその取り巻き連中(官僚も含む)の断罪も前提となります。これを厳しくやっておかないと、彼らの私腹を肥やしただけの無意味な国家破産になってしまいますからね。 庶民もそこまでなめられて、黙っているとは思えませんがネ(^_^;)
国富(国の金融資産)は海を渡ってやってくる。経済活動においては、富国(国民を経済的に豊かにすること)はつねに貿易黒字によってしか達成されない。交易による海外からの資本移動が必要なのである。ただ、現在では、情報システムが高度に発達したこともあり、国際金融市場での大規模な資本移動が瞬時に可能となっている。その端的な例がデリバティブという金融技術であり、それをもっぱらとするヘッジファンドの貪欲な経済活動である。したがって、国際金融市場での収支が大きくものをいう時代となった。これからの日本は、米欧形のグロスタに磨きをかけ、この市場を優位に生き延びなくてはならない。
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建設業型(公共建設工事主導型)公共事業は、それ自体は景気循環の基礎とはならない。したがって、政府が多大な公共投資増を行っても、財政が逼迫し赤字が膨らむだけであり、結局そのツケは国民が払うことになる。いくら公共事業をやっても税収は上がらないのだ。
これに加えて、デフレ不況下では、設備投資抑制による法人税の減収、所得減少による所得税の減収、買い控え(あるいは買い渋り)による消費税等間接税の減収等により、政府も自治体も深刻な財源不足にみまわれるため、デフレ不況下で公共事業の拡大してもプラス効果も期待できない。
では、なにがベストか? 市場淘汰による不良債権の処理、市場経済活性化のための各種規制の速やかな廃止、緊縮財政による小さな政府の実現、一時的に増大する失業者(余剰労働人口)の公共労働者化による生活保障。これらは、国のリエンジニアリングのためにまず着手しなければならない最低限の事項である。
(注)
公共労働者とは、各種の公共事業のうち、国土の維持保全に関した業務(災害の復旧・防止や自然環境の形成・保全等の事業)に関わるマンパワーであり、労働者個人分の生活費の全部または一部(配偶者等の家計収入または世帯外の者からの家計への援助を除いた不足分)を直接国費から支給される一群の労働者をいう。
これはいわば雇用保険と生活保護費をミックスしたようなものである。ただし、受給者は上記の公共事業に就労し、労務の提供を行うことが前提となる。
さて、現代日本のデフレ不況についてひとこと。現在のわが国の「不況」の真因は、社会構造の抜本的改革(=リエンジニアリング。リストラクチャリングではない)を求めて起こしている「市場経済の反乱」にほかなりません。この背景には、日本が「成熟した国家」になったことを意味しています。
「成熟した国家」とはなにか? まず国民各人が国民国家の構成員であることの自覚が必要ですが、そのうえで、各人それぞれの「ゆとりある生活」を追求し、それを享受可能な環境整備を果たした国家。 と、このように定義できるのでないかと思います。
ここで思い浮かぶのは、西欧先進諸国のイメージですね。どの国もそれぞれ、いくつもの深刻な問題を抱えてはいますが…。 で、日本もデフレデフレと騒ぐのではなく、高度成長の信仰に根差した価値観と別れを告げて、微成長下における国民生活の「ゆとり」の創造に主眼をおくべきでしょう。
先の緊急経済対策では、「ゆとりある生活空間の創造」などといって、20数兆円もの莫大な赤字国債発行のお先棒担ぎをさせましたが、「ゆとり」という概念をそのような粉飾的ことばづかいに貶めたらいけませんね。実はこのデフレ型不況は、昨年並の横ばい成長(ゼロ成長)あるいはせいぜい微成長下での国民の生活様式の変換が焦眉の急の時代になったことを現象として指し示している----このことに人々は(特に世の識者と呼ばれる人々は)気づくべきです。
ここで、「国民の生活様式の変換」とは、例えば、労働市場の自由化によるタコツボ会社からのサラリーマンの「解放」、あるいは、 農業従事者と土木建設業者の国家公務員現業職化または土地の所有権より国土保全義務が優ることを前面にうち出したうえでの彼らへのPFI化、などのマンパワーの質的転換からもたらされる生活レベルでの「ゆとり」という価値観への変換を指しています。この意味で、現行政府の執っている過去の「高度成長」時代の復活を目指す経済上の諸政策は、ことごとく誤りであると指摘できます。
現行産業界をベースとした成長信仰に基づく産業競争力の強化は、以上の理由から的外れであり、公共事業への肩入れも、結局のところ、資本主義の原則(競争原理など。詳細は『日本人のための経済学原論』小室直樹著を参照されたい)にのっとったものではありません。一言でいえば、公共事業の進捗そのものはかろうじて市場経済の枠内に留まっているものの、成果品そのもの(公共施設)は市場取引から退場してしまうからです。できあがったモノは、もはや商品として取り引きの対象にならない。この点で、有効需要論に立脚したケインズのいわば「公共経済学」は、少なくとも資本主義社会として、「成熟」した地位(実物・金融両面での広汎な世界市場を有する状態)に到達した国では、通用しないものとなっています。
さて、経済学については、まだまだインプット中ですので、今回は抽象的な表現のまま幕引きとします(^ ^;; でも、この問題は避けて通れないので、いずれは挙証しながら縷々開陳したいと思います。
最近の永田町の動きでまた一つ気になったので、ひと言触れておきます。というのも、例の「2000円札発行」の件です。これは、政府自民党の総裁でなにかの間違いで総理大臣をやっている小渕さんが、来年の2000年とその後の2000年紀を祝って?新札を発行するという、他愛もない権力者の遊技のように受け取られていますが、実はそうではなく、わたしが以前からここやHP「画図日記」で述べている本格的な「デノミ+預金封鎖+大増税」のための、デノミ部門における「予行演習」と捉えるべきものです。
自民党では、大蔵官僚の脳髄を借りながら、本格的にデノミ実施の向けての助走を始めましたから、今回の2000円札発行は、本格実施の前の前夜祭であり、政府筋によるデノミ・シミュレーションであると認識すべきです。つまり、Xデーは着実に近づいているわけです。
なお、ここで誤解のないように申し添えておきますが、「デノミ+預金封鎖+大増税」の予言は、太田春雄氏の『預金封鎖』(オーエス出版社)に教えられたものであり、残念ながらぼくの独創ではありません。でも、氏のこの予言は近い将来、的中するでしょう。さて、そのとき日本はいったいどうなるのでしょう? では、今日はこの辺で。