オウム真理教騒動

 島田裕巳という学者がいらっしゃいます。日本女子大教授で宗教学が専門の若手の学者です。

 彼は、かの悪名高き『オウム真理教』の熱心な擁護者でした。富士山麓の拠点に対する警察の一斉捜索のあとも、化学工場である第7サティアンを彼は単なる礼拝堂と認めたがっていました。おそらく、今年(1995年)2月に教団から請われてこの施設を訪れ、シバ神のレリーフだけを見て礼拝堂だったと報告した経緯があるからでしょう。

 この学者が、4月13日の熊本日日新聞に(記事の配給元は共同通信と思われますが)殊勝にもつぎのようなことを書いておられます。以下は、後半部分からの引用です。

「さまざまな事件をすぐにオウム真理教と結びつけてしまう雰囲気が生まれた。とくに警察庁の長官狙撃事件の際に、その傾向が顕著だった。事実関係はまだ明らかになっていないが、とりあえずオウム真理教が疑われる状況になったのである。
 日本人にとって、地下鉄サリン事件による『治安神話』の崩壊は、きわめて衝撃的だった。しかも、崩壊したのは治安神話だけではない。阪神大震災によって、都市の『安全神話』が崩壊しただけではなく、東京協和信用組合の問題を契機に、銀行は倒産しないという『銀行神話』にもほころびが生じた。バブル経済による『土地神話』や『株神話』の崩壊に引き続いて、戦後の日本人が信じ続けてきたことが、ことごとく崩壊の危機に瀕しているのである。(〜中略〜)
 さまざまな神話が崩壊し、自分たちの安全が脅かされていると強く感じるようになったことで、あらゆる事件をオウム真理教に直結させてしまう。ある意味では被害妄想的な観念が社会のなかに生み出された。しかし、そこには危うさが伴っている。」

 この少壮の学者の能天気に失笑しながらも、一方で「神話の崩壊」という点では納得するものがあります。この時代の神話の崩壊には、ほかにも例えば、戦後の目覚ましい経済復興を支えた「成長神話」の崩壊があり、また、結婚しない女性が増えるにつれて「母性本能の神話」も揺らぎはじめています(母性本能は後天的・文化的所産であるという考えが、精神分析の現場から唱えられています)。

 固く信じていたもの、あるいは、そうあって欲しくないと無意識のうちに望んでいたもの。それらの「神話」がいとも簡単に砕かれていきます。わたしたちの生きている20世紀末のこの時代はなんなのか? かりそめの自由と罪深い飽食。薄氷のうえの平和と癌細胞のように蝕む地球破壊。国際社会のなかで日本人であることを誇りに思うことができるでしょうか? すくなくとも、いまの私にはできません。「国際社会のなかで名誉ある地位を占め」ることなど、単なる観光としての海外旅行をいくらやっても実現しません。いや、もともとそういう気などさらさらないのが日本人の大半でしょう。残念なことです。

 日本がこれから(依然として欧米主導型の)国際社会とうまく処して行くためには、すくなくとも民主主義の理念を頭のなかに叩き込まねばなりません。でない限り、日本は「異質な国」として諸外国から警戒され、あるいは軽侮されながら、その経済力だけを目当てにいいようにあしらわれることでしょう。国際社会の「お人好し」にならないためにも、教育の在り方そのものを見直す必要があります。

 


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