「5人の賢者」に触発されて


1 ”愛”という名の青い鳥

 新しい価値観とはどんなものだろうか?

 科学の領域では宗教との距離が縮まりつつある。科学万能主義がぐらつきはじめ、かつて敵対した宗教的世界観(とりわけ仏教、道教、易教における認識論的領域)へ接近している。しかし、それは人間にとって「安全」なことだろうか? 科学万能主義は「生産性」と「利便性」をもたらしはしたが、かならずしも「安全」とはいえなかった。

 「思弁を弄して行い甘き」ところにはつねに懣着が蟠まる。苦行をしない僧侶は懣着が高じて尊大となり、その教義は権威の衣を織りはじめる。そしてまさに、宗教はこのときから堕落の坂を転がりおちる。ちなみに権威の衣とは、一定の思想のもとに自己を組織化することである。既成の宗教に限らず共産主義などのイデオロギーにしても然りである。特定の価値観を押しつけることで、個々の人間の集団的一元化を図り、権威と力すなわち権力によって人びとの自由を根こそぎ蹂躙する。

 憲法前文に言うように、人間は一人ひとりがこの専制と隷従から自由でなければならない。それが民主主義の基本理念であり、平等と博愛を保証するものである。このように、欧米型民主主義は自由を錦の御旗として掲げるのであるが、自由を強調するあまり、欧米流の民主主義社会では個人間の競争を第一義に置いている。しかし、その一方で、キリスト教の教えが途切れることなく受け継がれている。そこにはイエスの唱える隣人愛があり、これが博愛の原型ともなっている。

 そこで問いたい。愛と競争に引き裂かれた欧米型民主主義---その溝を埋めるものは何なのか?

 少なくとも言えるのは、個人の(そして家族の)生活のゆとりを第一義に置いているということ。そして、そのゆとりをベースとして、社会奉仕活動への無償の自発的な参加に自己の存在意義を見い出していること。ではかれらは、競争(パワーゲーム)に負けた敗者たちか? いや、有能なエギュゼキュティブも多数いる。おそらく、回答はこのあたりに潜んでいるだろう。それは、”愛”という名の青い鳥に違いない。ただし、この鳥は群れをなすことはできない。群れることを欲したとき、翼は折れ地に堕ちる。

 

2 共依存社会における「民主主義」とは?

 日本における民主主義とは、他者との共依存関係を構築し維持することを根本的な姿勢としている。では、そもそもだれのための何のための共依存であるのか。社会のため? 「みんな」のため? 日本型民主主義は、フレンドリーファシズムとしての「民和主義」ということばがよく似合う。つまり、徹底して集団に個人を埋没させることで、システムこそ主人であるという隷属的な社会正義を打ちたてている。

 日本人はこの島国のなかで、蟻社会のように自己充足的な国家を造りあげた。そして、国人の多くはこの国を民主主義国家と信じている。だが、それは大いなる誤解であることを知らなくてはならない。この国には専制こそないものの、国際社会のなかで先進国とされている国家としては、隷従を是認した類稀なる国である。

 さて、共依存社会における「みんな」のためとは、何を意味するか? いうまでもなく自己犠牲である。自己犠牲から連想されるものは、誠実・勤勉・忍耐・没個性といったところであるが、いずれにしても、快楽追求(より精確には、快適性の保持)に根差した自己の欲望を抑制するところに特徴がある。しかも、個人の力(努力)による欲望の制御ではなく、集団的行動規範への恭順によって、受け身的な抑制(つまり恥の文化)にとどまっているところに問題があるといえよう。 

 遠くは南京大虐殺、近くはエコノミック・アニマルの蔑称やノーキョー的海外パックツアーなど、いったん島国を出たらどんな破廉恥も意に介さない厚顔無恥さは、五人組的相互監視のもとでの自己抑制から解き放たれた者どもの自己の欲望を制御できない現れである。しかも始末の悪いことに、島の外での欲望の発散までも集団で行おうとするところに、個人としての自己の存立基盤がいかに根絶やしにされているかがうかがえる。

 やはり、日本は「特殊な国」であり、少なくとも古代ギリシャにその淵源をもつ民主主義国家とはお世辞にもいえないだろう。

 


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