以下の引用は、平成7年2月12日(日)の熊本日日新聞「日曜論壇」に掲載された霍見芳浩(ツルミ ヨシヒロ、ニューヨーク州立大学教授)氏の寄稿をもとに、論旨を損わない範囲で文章の整形を行ったものです(勝手ながら、タイトルも変えています)。
 危機管理に当たっての日米の相違に触れながら、わが国の無に等しい危機管理を制度的欠陥と断定し、その淵源を日米安保条約による米国への寄りかかり体質に求め、その根を植えつけた者として吉田茂を槍玉にあげています。
 わたしは霍見氏なる筆者をよく知らないし、安保についても無知なのですが、過激な論調のなかにも謙虚に耳を傾けるべきところもあると思います。
 氏が最後のところで主張している「現行安保の大改定」というのは、震災に限らず(戦争も含めて)危機管理は、自国の責任(国民主権)においてなすべきものであり、この基本的な態度なくして、真の危機管理づくりは望めないと言っていると思います。この意味において、わたしも同感です。

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日本に必要な危機管理づくりとは?

 阪神大震災は、日本の全国紙やテレビでは日本のことは分からないとの悲劇を見せつけてくれた。大震災の直後から、米国のマスコミは衛生写真の分析や現地特派員の直接観察を駆使して惨状の全体像を詳しく解説し、神戸市などの地方自治体から中央官庁にいたる行政システム、つまり、官僚や政治家の無能と無責任の人災面も具体的に指摘していた。

 一方、日本のマスコミ報道はお涙ちょうだいの現地報道が圧倒的で、断片的な官僚や政治家批判が恐る恐る顔をのぞかせていた。大震災の人的および物的被害を必要以上に拡大した人災面、特に自然破壊を極端にした乱開発の土建国の惨状や市民無視のお役人をつるしあげない被災者たちについての検証はなかった。

 日本のマスコミは伏せたり控えめに扱ったが、神戸の暴力団山口組の素早い被災者救援活動は米紙が詳しく扱い、「唯一、規則正しく市民救援にまず当たったのが暴力団組織とは」と日本社会を鋭く切っていた。そして、暴動や掠奪も起こさない被災者たちに加えて、わが社員とその家族だけの救済に没頭する企業群など未熟な民主主義の日本に米国民は改めて驚いてもいた。

 さすがに、日本でも、政治家や官僚のあまりな無能と無責任ぶりに加えて、村山総理が支持した緊急対策を各省庁官庁が勝手に握りつぶした人災は隠し通せなかった。本当の危機管理とは、個人にとっても企業や国にとっても、目先の危機の損害を最小限にくい止めるという技術的処理もさることながら、それまでは隠されていたが、危機が露呈してくれた制度や思想と行動の根本的欠陥をどのように徹底的に直すかなのである。そうでないと、ほとぼりが醒めた頃にまた必ず訪れる同じような危機に振り回されるだけである。

 諸外国からの緊急援助の申し出を「わたしは担当省に取り継いだだけです」と涼しい顔で責任逃れの斉藤外務次官。「外国人医師の日本での医療行為はまかりならん」と言った厚生省官僚。「避難所での患者点滴は許さない」と突っぱねた神戸市の宮本衛生局長。中央から地方の行政官僚の無能と無責任が、阪神大震災が暴いてくれた日本の根本的欠陥である。

 大震災にかこつけて「復興費捻出のために減税中止」などと嘯いているのは斉藤大蔵次官。湾岸戦争危機に際して米国に思うように操られながら、海部・小沢コンビは村山総理に震災対応の責任を取れと迫った。みんな今度の大震災が示してくれた日本の制度的欠陥であり、この抜本的是正が今度の大震災の教訓である。

 米国と違って日本に本当の危機管理がないのは、日本人に戦略思想、つまり、国益や国家主権の思想と行動がなからでもある。したがって、政治家や官僚の失敗責任を厳しく追及もしない。これは、主権在民の民主主義など持ち合わせてもいなかった故吉田茂が、日本国民に草案を隠したままで日米安保条約に署名してしまい、日本の国家主権を米国に譲渡した。これで、日本の国防、外交そして経済は米国の支持に従うことになり、在日米軍は日本国内の社会騒乱の鎮圧にも独断で出動できることにしてしまった。これはとりもなおさず、日本の米国植民地化を意味していた。米国の下請けとしての無責任な官僚システムと政治家は、故吉田氏の亡霊が今も日本を支配していることの象徴である。

 大震災の死者と被災者という尊い人柱を無にしないためには、村山総理は一罰百戒として、各省の次官以下の責任者の懲罰免職をまず行い、日本国民が国益感覚と独立心に目覚めるように日米安保条約の大改定を米国に通告すべきである。これなしの危機管理づくりは、仏造って魂入れずの愚の繰り返しとなるだけである。

 


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