冠省

 95.5.26に『羊飼いの日記帳』と『道は開ける』をいただきました。ありがとうございます。
 『羊飼いの日記帳』のなかの詩『1977年春3月』は、忘れていた青春の時代の1コマを思い出させてくれました。懐かしさのあまり胸苦しくなったくらいです。
 この詩に触れて、君の詩的感性はいまでもみずみずしい光を放っていると感じます。そして、散文的なスタイルのなかに、ある種の達観した余裕のようなものすら感じられます。



 『中学生日記いじめについて』は、KJ法の実践的フィールドワークとして興味深いものがあります。この手法が帰納的に結論を導きだすものとして、いかに合理的なものであるかをこの例はよく示しています。ただ、帰納的推論の場合にも、より確定的な結論を引きだすためには、推論し結論する者の秘められた仮説(または信念あるいはそれに近いもの)があり、それとの相互干渉による検証と修正によって、現実妥当な結論に至るものと考えます。

 「いじめ」そのものについては、極めて難しい問題であるとともに、かなり単純な問題であるとも思います。極めて難しい問題というのは、日本人の一人ひとりの生き方・価値観そのものに深く関わった深層心理の部分での病理であるからです。日本文化の内包する病理の問題といってもいいでしょう。

 「いじめ」は、中学生という多感な人生の一時期にもっとも鮮烈に現れます。自己という得体のしれないものを抱え込みながらその制御が充分にできない年代において、なんらかのストレス(多くは勉学上の劣等感)のはけ口を求めてもっとも酷薄に表出するのです。そのとき「いじめ」る側は徒党を組み、草食動物のようにおとなしい単独者を抱囲します。徒党を組むのは、お互いがお互いの衝動を認めあい、許しあい、そして高めあうためにほかなりません。

 しかし、「いじめ」はわが国の文化に深く根差しており、いわば集団的無意識層でのシャドウ(C.G.ユングのいう隠された攻撃性)であるため、「おとな」の世界でも日常茶飯事のものとして現れます。宮本政於氏(精神分析医)の体験によれば、おとなの「いじめ」の場合はまず、日本型集団主義への恭順(組織へのマゾヒティックな自己投棄)を強いるかたちでの「同化のいじめ」が展開されます。これに頑強に抵抗し続ければ、つぎはもっと厳しい「排除のいじめ」に転換します。いずれにしても、おとなの世界での「いじめ」は、氏も看破しているように、民主主義精神の欠落した土壌に、あたかもエボラ・ウイルスのように棲息しています。

 このように、「いじめ」の問題は、極めて難しい問題ではありますが、味方を変えれば、かなり単純な問題でもあります。というのも、その根絶もしくは治療については、欧米型民主主義の思想に基づいた個人主義の価値観を導入すればよいからです。その基礎は、君も言うように、ディベートにあります。しかも徹底したディベートです。でないと根づきません。そのうえで、デール・カーネギー・コースやKJ法による思考訓練を施すことにより、少年少女期から自己の感情を制御できる新しい日本人が誕生するでしょう。彼らは労することなく、国際社会のなかで渡りあっていけるはずです。

 ここで余談ですが、この「民主化教育」の最大の障害となるのは、日本において特徴的な「共依存」の家族関係だと思います。「共依存」という精神分析学上の専門用語は、家族のなかの親と子、とくに母と子ども、そして夫婦間の相互依存関係を病理としてとらえたものですが、真冬の布団の温もりにも似たこの「甘え」の関係(構造)をいまのおとなたち自身が矯正しようとしないかぎり、「いじめ」の根絶は無理でしょう。もちろん、世界に通用する国際人としての日本人も、排出することはないでしょう。

 ところで、この論説のなかに「仏教には,十界論という考え方があるが,それでいえば,この発言には,畜生界の生命がわたしには感じられる。」という記述がありますが、これはその筋の人には理屈抜きでわかるとしても、一般的には唐突な印象を与えるし、全体の論調からしてもそこだけ浮いているように見えます。君の思考過程では、デール・カーネギー・コースやKJ法とともに、真言密教の十界論に基づく認識法が無理なく結びついているようですが、一般には異質なものが顔をだしたという感じです。

 そこで提案です。十界論とデール・カーネギーの思想(または技法)とKJ法とが、君自身のなかでどのように(合理的に? 有機的に? あるいは想像もつかないような形で?)連携しているのかを検証してみたらどうでしょう?(失礼ながら、ぼく個人としてはとても興味をもっています。)



 『日本社会の在り方(メモ)1』については、KJ法を駆使して自分自身の考えを明瞭にまとめてあります。単刀直入であり、とてもわかりやすい。そして、なによりも力強さを感じます。

 とくに強く印象づけられたのは、教育に関して深い関心を寄せていることです。以前から君は教育者がいちばん向いていると思っていましたが、職業としての「教師」には意図的にならなかったとしても教育問題から目を放せないでいるところに、教育者としての天稟を窺い知ることができます。

 君の場合、教師にならなかったことは賢明といえるかもしれません。とくに中学教師の場合は、文部省の強い統制化にあって、あの多感なHuman-being に徹底した集団主義と学習技能の特訓を強いるマシンと化していますから、教育現場の理想と現実とのあいだで苦しい日々を送っていたことでしょう。

 ところで、「江戸時代モデル」という概念は歴史的考察のモティーフとして説得力のあるものとなっています。「江戸時代モデル」については、まずその内容を可能なかぎり白日のもとに曝し、その悪弊について徹底的に断罪する必要があるでしょう。そしてその作業のあとに、なおかつ評価すべき点が残っているとすれば、新たな可能性を含むものとして、自論への効果的な組み込みを企てるのも一興でしょう。

 余談ですが、ぼくも現代日本における「正しい」民主主義の在り方に関しては、自分なりに考えはじめているところです。その際のテキストは、宮本政於氏の『お役所の掟』と『お役所の御法度』です。とりあえず、気に入ったフレーズをアンソロジー化しています。それだけでも、「正しい(=欧米型の)」民主主義精神と日本型集団主義(=山本七平いうところの「日本教」とその教徒たち)の本質と絶望的乖離が明確に把握できます。

 続編を期待しています。なお、制作にあたっては、将来本にすることを念頭に取り組んだら、全体的にもよいものに仕上がると思います。



  1995.6.6 4:00am

                        日暮 景 拝 

I 様

 


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