宮本政於氏の著書『お役所の掟』『お役所のご法度』(いずれも講談社発行)から、官僚の生態以外について書かれたもの中心にまとめてみました。官僚の生態については、すでに「書評」欄に掲載しています。
本来ならこれも「書評」欄に載せるべきでしょうが、その内容が現代社会を生きる日本人そのものをあまりにも鋭くえぐっているので、上記の表題で「社会時評」欄に掲載することにしました。
スタイルは、両作品からキーワードごとに抜粋したもののアンソロジーです。(残念ながら、わたしの独創ではありませんので、その旨お断りしておきます。)
テーマ
「個の確立」「官僚制度からの独立」「自由の尊重」
「心の鎖国」あるいは官僚支配
官僚組織の内部では、ご法度を犯すと個人が有する「自由」という権利は取り上げられてしまう。自由の拘束が当たり前なのは、日本が民主国家でなく官僚主導の官主国家であることの証明といえる。
多くの日本人が官僚組織に支配され、その結果、「心の鎖国」から解放されることが難しくなっている。
独立心が育つと規制は不必要になる。ところが規制こそ官僚制度だ。だから独立心が育ち、規制を必要としなくなる社会の到来は、官僚制度の縮小へと波及する。¥
明治維新以来猛烈な勢いで近代化し、敗戦後は「貿易立国」の道を走った日本は、その社会の根底に貧しさがあり、また新しいものに接する恐怖があったように思う。そのために「我慢の思想」を植えつけ、「個」の滅却がひたすら求められ、集団の利益を優先させる日本的精神風土を助長してしまったのではないか。「心が鎖国」された状態はいまだに続いている。
日本では、国民を集団主義へ服従させるために「いじめ」という手法が用いられる。この集団主義を維持することが官僚制度の存在意義となっている。しかも官僚は変化を好まない。
官僚の間で徹底されている集団への従属という考え方は、日本社会全般に見られる症状であり、その考え方は、幼い時からたたき込まれ、その帰着が「みんな同じ」を尊重する日本的調和論である。
日本では、自殺が心中へと発展し、それが美学という形態に変遷を遂げた過去がある。このような美意識は、犠牲を尊ぶという精神主義と、その根底を共有する。
そして、官僚制度は、この心中の美学を共有することこそが、日本人としてのアイデンティティーなのだと国民に教育する。その結果、官僚も国民もみんな平等に犠牲となる。このような、徹底した平等教育が施された先進国は、日本だけである。
日本では、企業という組織体を維持するために個人が存在している。そして税制も、企業体が大きくなるような優遇措置が取られている。日本が貿易黒字をこれだけ重ねていながら国民の生活レベルがいっこうに向上しないのも、原因はここにあるのだ。
本来、企業とはお金をもうける道具にすぎない。もうけたお金は、企業を形成している個人に還元する。その結果、国民の生活の質が向上する。これが当たり前なのだ。でも、この常識が日本株式会社では通用しない。
不思議なことに、企業という組織体ができ上がると、その組織体を維持し拡大していくほうが、個人の生活を潤すよりはるかに大事になる。ここが欧米資本主義国家と根本的に異なるのだ。日本株式会社の最大の目的は自己肥大を遂げることにある。
日本がこのような特殊な形態を持った企業組織を今後とも維持するならば、日本はますます世界の中で孤立するし、国としての威力は減退し、国民の生活レベルも二流国家で終わってしまうだろう。
官僚制度は国民のためにあり、国民が官僚制度のために存在しているのではない。
日本の官僚たちは、戦後も明治以来の「官僚による産業の保護育成」という伝統的技法をそのまま温存することに成功して今日にいたっている。これはいわゆる国家資本主義であって、後進国が先進国に追いつく際には効力を発揮するが、いったん先進国になってしまって、自由競争によって世界の経済をリードして行かねばならぬ立場になるととたんに有効に機能することをやめてしまう。
官僚の能力は、国民の活力を国家資本主義的ないし社会主義的に規制したりする方面においてこそ最大の力を発揮するのであって、世界のトップに立ったときに必要とされる創造的なイノベーターの育成に関しては、無力どころかマイナス要因ですらある。
また、産業に対する政府の救済が常に期待されてきたため、産業界において自然な競争が阻害され、結果として、競争力の弱い産業や、すでに時代遅れとなってしまった不要な産業、あるいはまた自由競争に逆行するような商習慣等がいつまでも温存され、社会の新陳代謝を悪くし、社会を効率のよい創造的な体質に絶えず変革して行くことを著しく阻害する結果になっている。
日本は官僚により支配されている。また彼らの最大の使命は規制を作ることである。規制緩和は変化につながるが、官僚制度イコール規制であるため規制緩和など実現しない。
「日本がこれだけの高い生産性を保っているのは『生かさず殺さず』という哲学で国民を引率しているからだよ」
「官僚が支配している日本では、情報はできるだけ国民には公開しないことが大きな原則だ。
官僚がどうして日本でこれだけの権力を握っているのか。それは日本では、情報はみんな官僚の元に集まるようにできているからだ。情報を支配するものが国を制する。だから誰にどの情報を与えるか、よく考えなければいけない。政治家をコントロールできるのも、官僚が情報を握っているからだ」
日本は「国家」を中心においた集団主義から、多様化した価値観を取り入れることができる。すなわち人間を中心に置く考え方へと、国として大きな変革期を迎えている。そして国際国家の一員として、アジアから欧米から信頼されるようになるには、こうした変化は避けて通れない。
官僚制度とは国民の質の向上のためにあり、国民が官僚制度の維持・拡大のために存在しているのではない。この本質に国民は気付き始めている。だからこそ、官僚制度を守ることこそが人生だと信じている一部の官僚たちは危機感を募らせている。
日本は不況から抜け出られず、喘いでいる。そしてこの不況は、大蔵省と日銀を筆頭とした官僚制度が招いた不況だと私は考えている。
現在の官僚制度から抜け出ることができなければ、10年後の日本は、今あるような繁栄を保ち続けることはできないだろう。
「内」と「外」
「外」の組織に出向者を出すことは「縁」の形成へとつながる。日本人の「内」と「外」を区別する性癖は、集団組織間ともなればその傾向が一段と強まる。「内」と「外」が高い城壁に阻まれているようなもので、コミュニケーションにも限度が出てくる。だが、日本という大組織を円滑に運営するにはコミュニケーション十分に取れていることが必須条件である。このコミュニケーションを円滑にするには、「縁」を結ぶことが最善の手段なのである。「縁」は「内」と「外」を結びつける作用がある。日本人は自分たちの性癖を十分に把握していたため、出向という縁結びにより、お互いのコミュニケーションがよりスムーズになることを見抜いていたのである。
ただ、出向にも問題がある。出向ポストが時代の流れにそぐわなくなりその重要性が失せたとしても、役人の既得権にすがる体質と前例を重視する発想が結びつき、「いったん獲得したポストは手放さない」との姿勢を示すことがその問題である。「既得権は絶対に守りとおせ」は役人の鉄則でもある。既得権の消失は、役人にとって最大の汚点であるとの認識がまかりとおるようになる。
日本の組織では、組織を構成する人々に「一心同体」を求める。その結果、個人の見解が「みんな」という言葉にすり替えられ、相手に無言の威圧感を与える仕組みになっている。日本では、みんなと異なることは、即「わがまま」と非難される。欧米諸国では、きちんと論理立てて自己主張ができる者は、少数意見の持ち主としてむしろ尊重されるのに、である。
「みんなに迷惑がかからないようにせよ」となると、自分を抑えざるをえない部分が圧倒的に多くなり、「個人」の意見を主張することはたいへん難しくなる。「個」を主張することは、必然的にだれかの失望、不満、不快、不安、怒りなどを引きおこす。結果として誰かが「迷惑」を受けることになる。「みんなに迷惑をかけない」ようにするには、嘘を強要されることもある。
一方、「多少の迷惑がかかると思っても、嘘だけは言うな」「真実を直視できない者は、人間としての弱さの露呈である」というのが欧米流の考え方であり、嘘を許容する日本流の「配慮」など通用しない。
「大過なく」に代表されることなかれ主義、自主性・独創性の否定、自由競争よりは悪平等、ポリシーより調和、能力より年功序列などは、この基本がなくしては成立しない。根回しによる「みんなで渡れば恐くない」的状況の形成……これらはすべて「個」の徹底した否定とからみあっている。
「内」の論理は「個」の否定と密接した関連をもつ。「内」と「外」の概念は、日本に独特のものである。「内」と「外」にはっきりとした境界線が引かれ、日常生活のなかで、「内」の教義に素直に従わない限り、「外」に属している者は、いつまでたっても「外」の世界の住民でいることを強いられる。日本社会で「内」に属している者が「内」を批判することはタブーなのである。
「ムラ」の調和・平和は「個」の生活の犠牲という代償の上に成り立っている。そこには「外」の世界はどうなってもよいとの発想が見え隠れしている。この発想を持って外国と接するとどうなるだろうか。「内」なる日本さえ和が保たれればよいのだから、「外」の外国は、日本との競争によって毎日の生活にどのような影響が出ようが、知ったことではないという発想になりかねない。
「血族」とは、血のつながっている者で集団を構成しますという日本的集団主義の原点にも触れる文言なのだ。血縁関係のない者は排除するという、差別の思想も背後に潜んでいるように見える。
「赤い靴」の発想の基本は、異文化に対する不安の表現である。この発想は不安を高めないためには外国人が持ち込む文化から一線を画したい、それには外国人と日本人あるいは外人と日本人と両者を区別しましょうという展開となる。だが、こうした区別は外国人を自分たちの社会に入れないという差別の論理へと発展してしてしまう。
「血族」が持つ差別の論理と、「赤い靴」が意味する不安の感情が結びつくと、排除の論理が正当化されてしまうわけだ。
「いじめ」と「しごき」
「みんなと違うことはいけないこと」との不文律が役所には存在する。楽しいことを、まわりの目を気にせず行える性格は、見方を変えれば「日本株式会社御用達」のマズヒストではないことでもある。マゾヒストの傾向を取らない人に対して、集団は「いじめ」を用い、その人間を自分たちと同じマズヒストに仕立てあげようとする。
「いじめ」という行為は、属している集団・組織が、新人がどれだけマゾヒスト的傾向を持ちあわせているかをテストする側面もある。「いじめ」を耐え抜いて初めて集団の一員となれる。わが身にできる限り鞭を打たせ、その苦しみを耐えていることを集団に示せば「日本株式会社御用達」のお墨付きをいただけることになる。
新入社員は、能力とは関係なく、みんなの手となり足となり、いかに体を酷使しているかを全員に見せることによって、初めて一人前であるとの扱いを受けることに気がついた。自分に鞭を打つ苦しみが、快楽に変わってきている、ということを集団が認知すると、初めて「いじめ」はなくなるのだ。
「いじめ」は集団の論理の中に、個人をはめこむための道具と化すのだ。国際化に向けての教育が問われている現在、個人の持つ能力を最大限に引き出せる教育ができないのであれば、国際競争での勝負は明らかだ。日本人として認知されている者が、異文化圏に行き、日本人とは違った臭いをつけて来た場合、その異文化臭を、洗い流させるために、「いじめ」の集団が率先して行うのである。
「いじめ」は村八分を武器に、人間の深層心理を攻撃し不安をかきたてる。「いじめ」は手を替え品を替え、精神的圧迫を加える。陰湿なこと極まりない。そのため「いじめ」は心に大きな痛手を残す。いじめがはじまった年令が若ければ若いほど、傷跡は大きいと考えてよい。「いじめ」に対する罪は重いのだ。いじめは一種の迫害行為である。
「お客様」でいる限り「いじめ」にあうことはない。「ムラ」を訪れた「お客様」には外面だけのニコニコ対応となる。が、ケッシテ「ムラの内」には入れてくれない。「いじめ」という通過儀礼を受けて初めて「ムラ」社会の一員になれるのである。
「いじめ」は世界に共通する現象である。精神的に弱い者、肉体的な弱々しさ・障害を有する者、なんらかの理由で周囲から妬まれる者、などに対して「いじめ」が行われる。日本では「いじめ」は集団社会、それも大人の社会の中で、認知された行為なのだ。ここが欧米社会と根本的に異なるところだ。欧米諸国では「いじめ」は「相手が苦しんでいるのを喜んで見ている」行為と考えられ、異常心理のひとつと診断される。だから、大人で平気で「いじめ」を行う者は、幼児的心理状態から抜け出られない者、精神が未発達の人間と見られ、軽蔑の対象となる。
度合いの違いはあるものの、「いじめたい」との願望は、ほとんどの人間の心のどこかに潜んでいる。だが、通常は心の奥にしまいこまれ顕在化されていない。だが、戦争、暴動、災害など特殊な状況下では、それらの刺激が潜在意識に加わり、自分を制御する部分が取り去られ、「いじめたい」という心理が、残虐性へと発展することが多い。
「いじめ」を完全になくすることは不可能である。しかし「いじめ」の心理が顕在化しないように、抑制することはできる。ところが、集団という中に入りこむと、いったんだれかが「いじめ」の口火を切ると抑制がきかなくなり、「いじめたい」という願望が顕在化してくる。とくに自分の衝動の抑制を集団という形態に求めている場合、「いじめ」は大手をふって歩き出す。
「いじめ」を行っているボスも、無言のうちにサポートしている人々も、きちんとした自分の見解を持っておらず、「個」の確立が不十分であることである。また、これらに人々に共通していることは論理的展開をすることが難しく、情緒に流されやすい性格であるということだ。
私の「いじめ」に対する対処方法は、そのリーダー格とさしで話をし、論破してしまうことであった。「個」がないと、不思議と論理だって攻めていくと、たちまち自己崩壊をおこしてしまうのだ。
「いじめ」は形を変えた「差別」である。異質な者を「いじめ」で排除し、「内」の調和を保とうとの発想は、「差別」を助長するだけだ。
「いじめ」には、「同化のいじめ」と「排除のいじめ」がある。「同化のいじめ」は、ムラ組織に同化しなさいといういじめであり、人によってはそれを「躾」とも呼ぶが、このパターンのいじめは、まわりが「こいつはオレたちと同じになった」と認識することで終了する。
それでは同化しなかったらどうなるか。「排除のいじめ」がはじまるのだ。そして相手がムラ組織からいなくなるまで、手を変え品を変え執拗に続く。
本音と建て前を上手に使いこなし、葛藤がまったく起こらないことが「大人」として認知される。いつも正直に本音ばかりいう人間は「いつまでたっても子供だ」と馬鹿にされる。
「しごき」とは<年功序列とか終身雇用により格づけが大きくものを言う社会において、自分より下位にいるものに対し、集団の価値観を徹底させるため、加虐的な力、すなわち暴力からはじまり精神的な圧力まで広範囲な手段を用いて、相手の意思とは無関係に、集団が正しいちしている価値観を浸透させるための手段のひとつ。すなわち、組織的な残虐性を正義とした行動様式>である。
日本的集団に属するには、マゾヒストであることが要求される。だが、打たれて快感を味わえるような訓練、それが「しごき」なのだ。そして年功序列の上下社会は、こうした訓練を施すには最適な環境だ。
「しごき」によって、人間は調教を受けた犬が番犬として成長するように、敵に対して捨て身で攻撃をし、自分のとる行動に疑問を抱かないという従順さが育てられる。
このように「しごき」が正当化された社会を分析していくと、「官僚とその下にいる日本株式会社の社員たち」は、銃火器こそ持っていないが心は軍人であることに気づく。
「企業戦士」という言葉がもてはやされるのも、日本株式会社が日本軍隊と同義語であるからだ。
「滅私奉公」のマゾヒズム
「『滅私奉公』という、信じている価値観が崩壊することにより、属している組織が消滅してしまうかもしれない」という恐怖感は、実は幻想にすぎない。
個人の心の内部には、「集団があるからこそ『自分』という存在感が維持できる。ところが集団が崩壊してしまうと『自分』がなくなってしまう」という不安がある。これは集団主義のなかにどっぷり浸かっているために生じる集団ヒステリーである。
この集団ヒステリーに陥る性癖を正常に戻すのは簡単である。個人を中心とした生活にするだけである。
「私」と「自由」は表裏一体の考え方だ。そして「自由」とは人間の心に存在している本能だ。だから誰でも「自由」という「私」を満喫したい。官僚組織は、このあたりの心理を十分に心得ていて、「滅私」に励めば「自由」を与えるよ、というメッセージを送り出す。
そこで人々は少しでも「自由」がほしいと「滅私」に励むようになる。しかし、「自由」がほしいなら犠牲の精神を差し出せという発想は、「自由」の否定からはじまっていることに気がつくべきだ。
官僚組織は、「自由」を渇望する心理を上手に利用して、犠牲の精神を浸透させているわけだ。すなわちご褒美としての「自由」は本来の個人の権利に基づいた「自由」の概念にほど遠く、実際は、あたかも「自由」を保持できたという幻想を国民に共有させるだけにすぎない。
日本人の心の奥に植え付けられた精神主義は教義であるといってよい。またこの教義には原理主義的な部分がある。それが「滅私奉公」に代表される、マゾヒズム礼賛に見ることができる。
日本集団主義の社会では「人間性」とはマゾヒズムの度合いの強さを示すことをいい、「滅私奉公」の概念をどこまで極めることができるかが人間性につながる、という理論構成が根底にある。
組織の一員となってしまうと、人間的な生活を送りたいという意志はどこかに消え去ってしまい、犠牲の精神だけが前面に出て、それをみんなに求めるようになってしまうのだ。心中の心理の強要なのだ。
戦前の精神主義は、根本は犠牲の美学にある。教育に携わる人間が、「暑さを我慢する精神が大切だ」などという精神主義をいまだに振りかざしているようでは、日本が本当に先進諸国の一員となれるのは、いったいいつのことだろう。
「妬み」の論理
私は日本人がなぜ本音と建て前を使い分けるのか理解ができた。怒り、嫉みなどの「攻撃的な感情の対立」を極力、避けたいからだ。
欧米諸国は本音と建て前の使い分けなど行わない。小さいときから、論理立った対応に慣れているため、怒り、嫉みの感情を制御する手法を習得している。NOと言われても動じず、相手にも堂々とNOを言う。この対応ができてこそ大人の社会へのパスポートを手に入れることができる。
反対に、日本ではできるだけNOを言わないように努力する。日本人は自分の中にある「攻撃的な感情」の制御に慣れていない。そのため、いったん出はじめると、止めようがなくなる。そういう習性を無意識のうちに自覚しているからこそ、建て前・本音が成り立つのだ。だが甘えの文化から発祥する建て前・本音の行動様式は、欧米から見れば幼児的と取られてしまう。
日本集団主義はその基本構造が「妬みの論理」にある。いつまでも規制が取り除かれず、自由競争が導入されない。こうした現状は、社会生活を送る上で、いかに「妬み」が出ないようにするか、そこに力点が注がれている。だが、「妬み」を恐れるあまり、「妬み」がでないように「みんな同じであれ」、という教育が施される社会は幼児的である。
見方を変えれば、日本的集団主義とは「妬み」が社会正義化された一種の共産社会である。
日本的集団主義では、妬みが社会正義化されている。そして妬みがこれだけ大手を振って歩ける社会は先進国では日本だけだ。この点から診ると、官僚制度が作り上げた日本社会は倒錯しているといえる。
日本的集団では、「妬み」は正義だという他の先進諸国では見られない倒錯した価値観が正当化されている。
日本的集団に属すると、愛に恵まれた環境で仕事している、という幻想に浸ることを要求される。しかし、幻想とは錯覚で、ちょっとしたことで壊れてしまう。妬みなどが出現すれば、たちまち「出世と保身がいちばん大切だ」という現実を直視することになる。
日本的集団は、調和という幻想を共有することで成り立っているため、幻想が壊れては大変と、妬みを出さないように努める。
組織体の生存本能はすごいものだ。集団の結束が崩れないように、妬みを引き出さない人間ほど出世するという、人事評価システムまで作り上げている。
組織と責任
組織に属しながら、その組織を批判する。これは日本社会ではタブーなのだ。
日本はひとつの組織ができるとミニ国家になる。日本社会は無駄の中から出てくる一体感が生産性の高さを生んでいる。日本人は欧米人のようにポリシーを持って人生を歩んでいないから、みんなが勝手な方向に動きばらばらになってしまう傾向がある。そのためなんらかの求心力を持つお題目が必要となる。いつもみんなで一緒にいることが「掟」のなかでももっとも重要な部分となる。これこそ「もたれあい(甘え)」といってよい。
官僚組織に限らずムラ社会では、調和という概念を大切にする。これは、みんな同じであることこそが調和を保つ原点だという意味である。お互いの違いを認めあることが調和の始まりであるという、日本以外の国々で考えられている調和の概念とはその基本が異なっている。
人間が集団を構成すると、一人ひとりの中に存在している心のエネルギーがを先鋭化させるという傾向がある。不安もエネルギーのひとつである。だから、対処可能な不安でも、いったん組織体の中に組み込まれてしまうと、不安が膨れ上がってしまい客観性を失ってしまう。このように客観性を欠いた状態を押さえるには、集団としての枠組みを堅固にすることが必要となる。
人間の性格は大きく分けるとふた通りに分類できる。攻撃型と防御型だ。例外もあるが、攻撃型と攻撃型、防御型と防御型の人間が一緒になると、人間関係がぎくしゃくする原因となることが多い。その反面、攻撃型と防御型でまとまると人間関係もスムーズに進む。
日本的集団主義の賢いところは、自由だとか権利など、概念的に仰々しいことに入り込む前に人間の心理を巧みに操り、ストレスを与えることで相手を支配しようとする部分にある。
課内旅行とは、規律ある集団行動を行うためのトレーニングの場であり、日ごろ発散できなかったストレスを解消するストレス・マネージメントの場なのだ。要するに、仕事の延長なのである。
課内旅行には、官僚組織と集団主義の問題点が集約されている。伝統という名のもとに、時代遅れとなったシステムが大きな顔をして幅をきかせる一方、集団に属する個人がお互いを監視しあう。そのため、個人の意見があったとしても、まわりの目を気にして発言できない。「組織の伝統」という大義名分のもとに、個人の意思は抹殺される。多くの人が時代錯誤の習慣だと認識していても、それを変革できない、という悪循環が成り立っている。
「新聞社も役所と同じで、大きな官僚組織なんです」
トップが責任を取り、部下は責任を取らなくてもすむ、という責任体系は、必然的に組織に減点主義を導入することになる。まちがいを恐れるあまり、前例を重視するようになり、結果として現状維持の姿勢を貫くことになってしまうからだ。
この責任の取り方のもうひとつの特徴は、個人としてはだれも責任を取らないという部分だ。責任は組織体の長という「ポスト」が取る。そのポストに就いている個人の責任はうやむやにされてしまう。集団による責任回避体制いや、無責任体制が作られている。つまり、責任といっても、単なる「形式」、さらに言うならば実質の伴わない「型」なのだ。
管理者の意義はリスクを負うことにある。
先進民主主義国家とされる国々で、日本のように責任の所在が明確にされず、また個人がその責任を取らなくてもよいようなシステムが構築されている国はない。これだけでも日本は異質なのではないか。
実際の官僚社会では、責任が最高位の者にいくために、個人としての言動が著しい制約を受けることになる。だが、こうした日本的責任体制は、言論の自由を尊ぶ民主主義社会と基本的に相いれないばかりか、「自由」の概念を根底から揺さぶることにもなるのではないか。
自主規制
「自主規制」は、日本社会ではごく当たり前に存在する行動様式で、組織体を存続させておきたいという生存本能の表れだと考えてよい。
人が集まれば自然発生的に組織は形成される。すなわち組織そのものは人間生活を営むためには必要な存在である。そして組織は人間が快適な生活を営むため、人々の生活の質を向上させるために存しているなずなのだが、日本ではそうとは言えないようだ。
組織はある程度の大きさを確保すると、自己増殖を遂げるようになる。組織は生命力を持つようになる。
いったん生命力を持った組織体は、自己保存の本能がはたらき、その結果、中にいる人間を利用してでも、組織体の温存と拡張にエネルギーを費やすようになる。
生命体となった組織は当然のことながら、自らの生命を脅かすものは排除しようとする。自粛とか自主規制も、組織体という生命体が脅かされることに対しての予防装置なのだ。見方を変えれば、組織体としてのストレス軽減の表れだ。
日本的集団には、内部からの批判はないものだとの前提条件が存在している。ただ、こうした前提が絶対条件ともなっているため、前提が壊れてしまえば組織体は生命力を失ってしまう。組織体はその弱点がわかっているものだから、内部から批判が飛び出さないように、内部にいる者どうしでお互いを見張るようになる。江戸時代に導入された「五人組」はいまだに健在でだ。
このように日本的な集団社会を冷静に分析していくと、いったん集団という存在に属してしまえば表現の自由は奪われてしまうといっても言いすぎではない。
自主規制とか自粛とかの概念は、思いやりという感情に変化してしまうのだから始末におえない。
こうした自主規制とか自主という行動様式がムラ社会で市民権を得てしまったのも、「まわりの目を気にすることが善」とか「集団の調和をなによりも優先するべきだ」という徹底した反民主的な教育の結果なのである。
タブーが多ければ多いほどその社会は後進性を抱えているといってよい。そして社会の成熟度に比例してタブーは減少する。社会が未成熟だからこそ、自粛・自主規制によりタブーに触れないようにしているのだ。当然のことながら、タブーが多い社会では自由とか独立の概念も抑圧される。
感情のコントロール
日本式の会食には、ざわめきにはふたつのパターンがあるようだ。ひとつは酔いが回れば無礼講の宴会のざわめき。もうひとつは琴の音色を彷彿させる、最初から最後まで同じオクターブで終わってしまう、いわばざわめきが存在しない懐石料理だ。
アルコールの力をかりて自分の感情を解放してゆく、この過程に欧米式と日本式には違いがある。欧米式はウィット、ユーモアをちりばめ、じょじょに感情を解放させてゆく。日本式はどうかというと、最後まで気品を保ち、自分の内面を見せず、解放は行われないか、アルコールが入ったとばかり「恥も外聞もなく」一挙に自分を解放させる二つのパターンに分かれる。
欧米人はキャッチボールが上手なのだ。アルコールが入って、ボールを投げる力が強くなっても、十分にミットにおさめるだけのコントロールは保持されている。これは幼いころからディベート(討論)などを通じて訓練を受けているからできる。
感情・衝動をコントロールする心の基盤は、幼いころ育ってきた母子関係と深い結びつきがある。欧米型の母子関係は、幼少のうちから母親離れを奨励する。だから大人になったとき、自分たちの感情、衝動がかなり強くても十分に対処しコントロールできるようになる。もちろん、欧米型の夫婦関係が感情、衝動のコントロールに大きく貢献していることは見逃せない。夫婦がひとつのユニットを形成し、子供は一人の個人として扱われる。だから、子供のときから独立を意識せざるをえないのだ。
対する日本人、昔から子供は家の中心的存在となっている。しかも母子関係のほうが夫婦関係より密接で、親は子供を自立させることにより保護してやりたいとの感情が優先してしまうことが多い。結果は、子供のいつまでも依存心が強く独立することに不安を感じる性格の形成となってしまう。
仕事と休暇
欧米諸国では、労働は神から課せられた苦役であり、神の教えに忠実に従うことにより、いつかはその苦役から解かれる、との発想が原点にある。
人間の精神構造の基本には「快楽追求の原則」が存在する。「快楽原則」は万国共通であり人間の本能でもある。人間は「楽」を好み「仕事」という労働を嫌うのは当たり前なのである。
仕事というのは自分の生活を維持するための道具と考える西欧社会では、仕事のために自分の社会が侵食されてくるのは許せないことである。
日本人と対抗するには労働時間の延長しかない。自分たちの基本的な価値観を変え、日本人同様、個人の生活を犠牲にして日本と競争するようになるか、日本との競争に敗れて市場は日本製品で反乱するか。どちらも日本人との闘いに負けたということになる。
ゆとりを十分に持ち、自分と家族との生活を楽しむ。これは西欧社会だけでなく、どこの社会においても目指すべきルールである。「仕事は個人の生活を豊かにするための道具」と考える生き方のほうが「個人の生活を犠牲にしても組織のために頑張ろう」という意識より、よほど人間的に思える。
単身赴任とは、組織の利益を個人の生活に優先させるという人間性を無視した考え方の集約なのだ。単身赴任はストレスを倍加する。そして老化の促進剤でもある。単身赴任など拒否して当たり前で、それをむりやり命令するのであれば、国民はいろいろな形で抵抗するべきなのだ。
日本という集団組織は、とにかく長期休暇を取らせようとしない。休暇は個人が有する権利であり、仕事したことに対するご褒美ではない。
国際社会は日本と違って競争原理で動いている。強い者が勝つ。闘いを有利に進めるには、まず十分な休養が必要だ。
人生とは、まず楽しむこと。そのための仕事だ。そして官僚は、国民にゆとりをもたらすことが本来の仕事である。
海外旅行は「心の鎖国」を解くための特効薬である。
新しい環境は精神面に色々な刺激を与える。そして刺激は、変化を求める気持ちへと発展する。見るもの、食事の味、聞こえてくる言語・音楽、空気の香りなど、五感に直接訴えかけてくる刺激は変革のエネルギー源となる。
こうした刺激は創造性への原動力ともなる。また人によっては、自分の時間を使って組織から独立できるような能力を身につけることもできる。
組織体は、このように個人が組織から独立するような方向に向かうと困る。さまざまな難癖をつけて、長期休暇を取りにくくする。しかし、長期休暇は個性を刺激して組織を活性化し、最終的に組織の生産性を高める最良の処方箋なのだ。
人権とは「自由・独立・個人」の権利
人権の基本とは、個人一人ひとりを尊重するところからはじまる。自分の権利とは何かを知り、組織体という抽象的な存在からいかに自分を守かが、人件の基本である。国民一人ひとりの権利が、取り巻く集団から認知されなければならないのなら、集団の言いなりになるのと同じである。
自由、独立、個人の権利の獲得は、無意識のなかに存在する親に対する依存心からの決別を意味し、ひとり立ちに対する不安が生じます。また自由は、人間の本能を刺激して、自分の衝動の存在に目を向けさせます。自由が獲得されるまでは親とか家族という存在に自分の衝動のコントロールを委ねてきたのですが、今度は、自分で自分の衝動をコントロールする必要が出てくるのです。
欧米人にとって、「自由」「個人」「独立」などの概念を軽視する日本的集団は異質である。
「旅の恥はかき捨て」という発想があるが、これも自由になりたいという願望がネガティブに現れたもので、規制や掟でがんじがらめになっている社会に住んでいればいるほど、自由になりたい気持ちは強くなる。
日本的集団社会に住む国民は、お役所からの規制や集団の掟でがんじがらめに縛られている。
赤信号でも渡ってしまおうと思っている人は責任の所在を明らかにすることにそれほど抵抗がなく、日常生活でも個人を中心において物事を進める。こういうタイプの人は規制に服従したくないという意思がどこかにあるからこのような行動をとるので、見方を変えれば、自由に対する要求が強いといえる。
花は、躍動感、楽しみ、喜び、嬉しさなどを表現し、自分の気持ちを素直に表すことにもなる。個人を大切にする、その考え方が色とりどりの花を植えましょうという発想へと変化するのだ。
ストレスと現実検討
デジャブー現象とは、精神的にストレスを受けたことによって退行現象が起き、初めての経験であるにもかかわらず、いまの自分のいる場所に昔いたことがあったと思ってみたり、今体験していることを以前、体験したことがあると思い込む、一種の錯覚に陥る心理現象のことだ。
デジャブー現象が起こった場合外からのストレスを少なくするべきなのだが、それには現実検討という、錯覚から自分を解放し、現実を見きわめるという作業をしなければならない。
ストレスは心に負担を与える。そこで心は、それを回避しようと、ストレスを与える現実から逃避せよという命令を発する。その結果として錯覚に浸ることになり、デジャブー現象に陥る。
デジャブー現象が起こった場合、錯覚から自分を解き放して現実をきちんと見つめなおすことこそが、ストレスを軽減させることになる。
現実検討という自己が置かれている現実を直視する方法。この操作をすることでストレスに耐えるだけの器ができ上がる。すなたり、自分の心の動揺を客観的に分析することが、ストレスを減少させることにもつながる。