『となりの超人類』に寄せて

 

 最近、久しぶりに啓発的な新聞記事と遭遇しました。1999年11月16日の日本経済新聞の生活家庭欄の「となりの超人類----若者考現学 2」がそれです。勝手ながら、 以下に全文を掲載させていただきました。

 さて、この記事のどこがわたしにとって啓発的なのか。この記事で「超人類」と呼ばれる、かつて新人類と騒がれた世代をも上回る礼儀知らず、無遠慮、全能感とひ弱さ、愉快と孤独を真空パックにした生物。心の琴線に触れる数行の即興詩が欲しくて、路上人の前におとなしく並んで、自愛の淡い感動を買っていくビルの谷間のデラシネたち。

 25年も前にもデラシネたちはちゃんといて、所在なげに街をブラついていました。あるいは、下宿でゴロゴロしていたり。そういうわたし自身もデラシネに近い存在でした。その頃は、小此木啓吾先生の「モラトリアム人間」ということばが、わたしにも当てはまりました。

 いま、「超人類」などということばでどこかの異星人のように呼ばれている彼らは、路上人の即興詩のまえに並ぶのか。「自分探し」…わたしは、自分自身の同年代の頃(20才前後)を思い浮かべ、そして、うかんだことばがこれでした。生存に満たされて、生活に満たされない世代の「自分探し」。

 飽食、先端医療、衛生管理、完全冷暖房、クルマ・電車・新幹線・ジェット旅客機、衛生テレビ・携帯電話・インターネット、などなど…。でも、そんなに生存に満たされても、それでも生活には満たされていない。なぜなら、自分がだれなのか、何なのか分からないから。どこから来てどこへ行こくのか、分からないから。だからこの時代にも相変わらずのデラシネ。

 でも、以前とちょっと違うのは、正面切った「自分探し」はなんだかウザッタイ。息苦しくてめんどくさい。だから、どこか…優しげな、楽しげな、自分を理解してくれそうな、ポンとインスタントに近づける、そんな<神>へと、そんな<神>に使える導師(グル)へと、そんなグルを慕う者たちへと、やすやすと魅かれていく。

 ぼくたち「モラトリアム」世代の旧・若者たちは、あのベビーブームの全共闘世代とは比べようもないけれど、既成のおとなたちの創っている厳然とした「社会」の扉が、前方にありました。その「社会」への参入に当たって、デラシネたちは「モラトリアム」という形で逡巡していた、といえます。

 でも、西暦2000年前夜の若者たちには、もはやそのような「社会」意識は、どこにもないかのようです。あらゆる居場所が自分自身のステージにほかならない。だから、既成のおとなたちから見れば、ほとんど処置なしの「礼儀知らず」の生物群になってしまいます。企業の採用条件のひとつに「社会の基本的なマナーをもっていること」が掲げられるゆえんです。

 そんな超人類たちですが、彼らの求めているものは、結局のところ、わたしたちの若いころとなんら変わりません。一義的には「自分探し」。でもそれは、あるものへの不完全燃焼にすぎません。あるものとは、もちろん<神>です。その神とはヤーウェ(エホバ)か、アラーか、ブラフマンとアートマンか、シバ神か、あるいはイエス・キリストか、仏陀か、モハメッドか、神武天皇か、あるいは太陽か、月か、エーテルか、E=mc^2か…。

 「自分探し」というデラシネの旅に誘うのは、実は、「揺るぎない唯一神」への身を焼き尽くすほどの愛恋(同一化)なのです。ただし、幼少時からこの「唯一神」への絶対的帰依を育まれた米欧の多くの若者には、もはや「自分探し」の衝動はおこりません。必要ないからです。

 しかし、「唯一神」のいないこの国の大半の若者には、それが必要です。ですが、どの世代も「自分探し」の途上で、まるで夢から覚めたように分別臭い「おとな社会」へアッサリと転向してしまうのは、(一神教的)人格神がついに降臨しなかったJapanismの世界のなかで、戦後突然に、個人主義的民主主義の皮相な思想と政治システムだけが導入された当然の結果ともいえるでしょう。

 ありきたりの結論ですが、いつの時代の若者も、「自分探し」のその先に垣間見ようとするものは、<神>の足下にひざまづく自らの法悦の姿なのではないでしょうか。でも、<神>そのものについて、この国のおとなたちはだれもなにも教えてくれないのです。これからも、せいぜい「そんなもの、いるわけないだろ」という分別臭いおとなの暴言で幕を閉じるのが、「自分探し」の旅でしょう。

 


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となりの超人類----若者考現学

 

 「自己中心」「怖い物知らず」「傍若無人」。こうした気質は、いつの世も若者の特徴といわれてきた。だが、最近の二十代はそんな”オレ様”ぷりがさらに際立つ一方、ほんのささいなことでひどく落胆し、引きこもりにまで至ってしまうケースも少なくない。過信と極端なもろさ。そんな二つの言動が目立つのも超人類たちの特色だ。

 

「私が正しいはず」

 「模範解答が間違っていると思います」。ある国立大学のコンビューター演習で、二年生の女子学生が講師に詰め寄った。「私の答えが正しいはずです」。講師が説明しても納得がいかない彼女。根拠もなく自分が正しいと言い張るその姿勢に、「こんなことを言う学生は以前はいなかったのに」と講師はため息をつく。
 「子どものころから国を変えたいと思っていた。自分が変われば社会も変わることにつながるのでは」。こんな大きなことを淡々と話るのは、都内の私立大学”六年生”の男子学生(25)。「政治、経済など興味があることを勉強したり、様々な人と知り合ったりして自分を磨いている。あと二年は大学にいるつもり」。将来は非政府組織(NG0)スタッフを目指しているというが……。
 昔ながらの若者と違うのは、自分本位の傾向がきわめて強いうえに、目的があってもなかなか行動に移さない点。何よりモラトリアム特有の悩みなどが感じられないことだ。「目立つのは、やってもいないのに、やれると思っている超ポジティブ(前向き)な若者たち」と『流行観測アクロス』(パルコ出版)編集室の高野公三子さんは話す。
 良い学校に入り、大企業に勤めれば安定した生活が送れるという、従来の価値観が崩れた九〇年代。わいろの横行、高級接待など企業社会の負の部分も明るみに出て、経済成長を推し進めた親世代の権威は失墜、思い上がった若者が増えているのかもしれない。だがその半面、挫折感も味わいやすく、簡単にあきらめたり、家に閉じこもってしまうのも大きな特徴だ。
 「僕はもっと仕事ができる。能力を認めてほしい」。ある大手メーカーの若手社員は、自分を抜てきしてくれない上司にいらだち、社内のカウンセリング室に駆け込んだ。担当したカウンセラーの報告に「そんなに言うならやってみろ」と上司は大きな顧客を任せたが、結果は危惧(きぐ)した通り、彼の手に余り、「できない」と泣き出す始末。やがて出社拒否に陥った。

 

紙一枚に千円払う

 引きこもりなどで大学へ登校しない若者は約三万人いると推定される。「少子化の中で、両親や祖父母から過保護に育てられた若者の自已顕示欲は人一倍強いが、その一方でめっぽう打たれ弱い」と精神科医の町沢静夫氏は指摘する。
 ファッショナブルな若者が行き交う東京・表参道。その一角に若者が群がっている。元タレントで「路上人」を自称する軌保(のりやす)博光さん(31)にメッセージを書いてもらっているのだ。たった紙一枚なのに平均千円前後を路上に置いた缶に入れていく。
 『絵里子でいろ。絵里子の形を出すこと。描けば形はいずれ出る』。そんな言葉に、涙を浮かべたのは千葉県佐倉市に住む山口絵里子さん(仮名、25)。「本当にこの通りだなと思う」とポツリ。
 大学一年生の高野澄子さん(仮名、19)は『言葉だけで考えるとウソ。感じていけぼいい』と書いてもらった。うわさに聞いて、ここを通るたびに彼を探していた。大学入学と同時に上京したが、いまだなじめないという彼女の心に響いたよう。寂しい気持ちを相談する人がいなかったのか。

 

弱さをさらけ出せず

 「クサい」「キザ」とも思える言葉が、若者たちに受け入れられる。当の軌保さんは「何か考えるきっかけになってくれれは……。学校の先生らは、こんなこと言ってくれないでしょう。僕だったら並んでまで書いてもらおうとは思わないけど」と苦笑する。メッセージをもらったのは、この一年で一万二千人に達する。もちろんその中には、普段は自信満々の「オレ様」も少なくない。
 一方、二十代前半の男性二人組ユニット「ゆず」。携帯電話、インターネット全盛の時代の中で、七〇年代フォーク調の歌が若者に受けている。十月発売のCD「ゆずえん」は既に百三十五万枚も売れた。
 カッコ悪さもさらけ出せ、少し休もう−−。何かを訴えるのではなく、強がる人を受け止めてくれるような歌詞。「歌は自己確認の手がかりとして重要。自然体な歌詞が共感を呼んでいるのでは」と、関西大学の小川博司教授(メディア文化論)は分析する。
 「学校でも会社でも競争が激しく、いつも『頑張れ、頑張れ』と励まされてきた若者たちには、日常生活の中で弱さをさらけ出せる場所もないし、相談できる友達もいない。そんな彼らの逃げ場所が路上詩人であり、音楽なんでしょう」と、臨床心理士で原宿カウンセリングセンターの信田さよ子所長は話す。

(生活家庭部:原寛子)

 


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