テーマ 日本社会の在り方について(メモ)

 本文の要旨 自立した責任ある個の確立を アウトプット教育と,生物や他者とのやりとり豊かな遊びの復活によって進め,日本社会のあらゆる側面において生産的な会議(コミュニケーション)を充実させたい。                             

 

前 文

 日本社会を概観すると,日本人は,民主社会を構成すベき市民としてみると,まだまだ完全に自立した個ではないと私には感じられる。したがって,自立した責任ある 個 の確立が急務である。責任ある市民あるいは個人として,それぞれの個性を認めたうえでの生産的な会議,議論方法等のコミュニケーションの充実を推進する必要がある。

 

第1章 自立した責任ある個の確立

 滅私奉公の言葉のとうり,日本社会における個人は,伝統的に,国や県などの行政,あるいは自己の所属する団体や大企業等に庇護を求め,また逆に,問題が起きた場合には,問題の責任の所在をそういったものに転嫁する傾向がありはしないか。そのことはすなわち,日本にすむ人々の多くは,責任ある自立した個の意識が希薄なのではないか。

 

 第1節 官尊民卑の伝統が江戸時代モデルとして生きている

 第一に問題にしたいのは,江戸時代以来の日本における官尊民卑の伝統である。即ち,日本における江戸時代以来の官尊民卑の伝統が,わたしたち日本人の心の中に,いわば江戸時代モデル(註;下記参照)として生き続けているのではないか。それがひいては,政治への無関心,一流大学や一流企業志向の流れによる受験競争などの教育の問題を生み,さらには,国家や自治体の規制をいわば国民に対する庇護策として無意識に容認する,もっと極端には規制を積極的に求める考え方を生んでいないか。                                                     江戸時代は,200年以上継続し,現代日本にも,その名残 が現在にも脈脈と生きている。 すなわち,江戸時代において,少数の武士階級が,幕府や諸藩の役人=政治家=庇護者として,その他の階級の大勢の日本人を支配していたのであるが,現代日本人のなかに,江戸時代類似の行動,発想様式を容易に発見できる。国定や国立,宮内庁ご用達,なんとか省認定であることを有難たがり,お上には頭があがらない傾向はないか。公害を起こした企業を最終的に規制したのは,我々の声というよりも,国や県などの役人と考えていないか。
 官尊民卑の伝統の亜流として,江戸時代の雄藩を見る思いで,一流大学や一流企業を見てきていないか。その心が,教育のなかにあらわれて,学歴信仰や受験戦争をうんだといえないか。
 官尊民卑の伝統が,与えた影響の一つとして,現代日本の市民の政治意識があげられる。つまり,政治は,どこかよその人達のものという気配も,この国のなかに,色濃くただよっている。政治は,侍の様に,特別の世界に生まれた人達がやるものだと考えていないか。プロの集団に任せておけば大丈夫だと考えてこなかったか。私が,テレビのニュウスで見たあの光景を今でも忘れない。それは,土呂久公害の視察に来た宮崎県知事を,被害関係者らしき年配の女性達が,涙でむかえる光景であった。テレビドラマで見る江戸時代の殿様を迎える人達の姿に似ていないか。
 官尊民卑の伝統が,現代日本に残している影響としてあげうるもう一つの例は,国家の規制に対する我々の意識である。すなわち,米国から日本に対して浴びせられている批判の一つは,日本の非関税障壁と呼ばれる諸規制である。米国の批判に心の中で覚える反発の中味は,諸規制が我々を守ってくれているという意識である。規制をなくすと,企業等が暴走したらどうしようと無意識に考える自分に気がつく。何かあると,警察や国が,もう少し厳しく取り締まってくれないと困ると考え,期待するのは,最近の例をあげるまでもなく,我々国民自身なのだ。                                                                      (註)日本人の心の中に生き続ける江戸時代モデルとは,権力側では,民を統治するものと考え,民自身でも自分より強いものにすがって生きていこうと考える社会的傾向。以降江戸時代モデルと呼んでおこう。 

 

 第2節 自由の名のもとでの社会的責任の放棄が,多くの問題を生んでいる

 好き勝手が,自由の別名なのか。そうではあるまい。自由と責任の問題を,よく思索せねばならない。子供には,社会的自由は与えられない。なぜか。それは,社会的な責任が取れないからだ。すなわち,社会的自由は,社会的責任が持てるものに与えられている前提で社会は動いている。
 ところが,最近,自由の名の元に,社会的責任を放棄もしくは軽視したために起きたと思われる事件が多いのだ。
 宗教では,オウム真理教の信者の子供たちが,上九一色村で多数保護された。これは,親が信教の自由を理由に,子供を教育する責任を放棄した一例といえまいか。
 マスコミでは,ある女性のマラソン選手のレース中の生理による出血を,ある会社が,写真入りで報道した。これなどは,報道の自由を叫ぶ以前に,他者への心の痛みに対する社会的責任の希薄な一例だろう。
 過去に,公害問題が新聞の社会面を賑わした時代があった。そして今も,地球規模での環境問題が,全人類の今世紀の課題になっている。国内レベルだけで見ると,企業の収益優先主義そしてそれと表裏一体の社会に対する責任感の欠如が,公害や環境汚染を引き起こしたといえまいか。

 

 第3節 江戸時代以来の官尊民卑の伝統が,社会的責任放棄による諸問題の温床だ。

 第1節の官尊民卑の伝統と第2節の自由の名のもとでの社会的責任放棄による諸問題との関連を論じなければならない。
 江戸時代以来の官尊民卑の伝統が,日本人の心中に,いわば江戸時代モデルとして生き続けている。それが,どういう形態で生きているかと言えば,各個人が社会の様々の問題を政治家任せ,あるいは,役人といった専門家任せにする傾向を生んでいるのだ。裏を返せば,個人が,社会の諸問題をどこか遠いところの問題として捉え,自分の問題として捉えない傾向を生んでいる。端的にいうと個人が市民として,社会に対する責任を担う歴史が乏しいため,個人が社会にたいして無責任になる傾向を生んでいるのである。

 

第2章 アウトプット教育の充実と社会のあらゆる側面での会議(コミュニケーション)の充実

 従来,知識の詰め込み(インプット)に傾斜していた教育の傾向を改め,知識を集約し表現(アウトプット)し,知識や情報を活用する教育(以後,アウトプット教育とする。)を充実させる等の対策を講じ,一人一人の個性の多様化を推進する教育をすすめる。それにより,社会のあらゆる場面での議論の充実,市民のコミュニケーションの充実を押し進める必要がある。

 

 第1節 社会のあらゆる場面での対話力の不足,議論の不毛もまた,諸問題の温床だ。
 社会のあらゆる場面での,議論の不毛,言い替えれば,日本人の対話力の不足が,社会のいろいろな問題を引き起こしているという主張が,この節のテーマである。
 すなわち,政治の腐敗の問題や,政治や経済を一部の省庁が取り仕切っているという官僚の強大化の問題,また,企業の過去から現在までの環境破壊の問題の遠因は,このあたりにありはしないか。
 すなわち,高い見識を持ち,社会と世界を憂うる無私の人のみが,衆知を集める真のリーダーたりうると私は信じるが,日本の現実,特に,政治の世界には真のリーダーは,育っているだろうか。高い見識がなく,社会と世界を誠実に憂うるに程遠い,金と力にものを言わせるボスが,権力に対するエゴまるだしでのさばってきたのが,現在までの日本の政治だ。金権政治等,政治腐敗の原因は,日本人の対話力不足と,それによる日本社会の議論の不毛にある。
 そして,国会の議論は,聴取する私たちにとって,また,国会議員自身にとっても生産的と言えまい。国会の形骸化が叫ばれて久しいが,これ,すなわち,議論の不毛が,官僚をのさばらせている原因になっていないか。
 国会のみならず,日本社会のあらゆる場面で,生産的な議論は,本当になされているのだろうか。地方議会,企業や地方の役場における職場での会議,地域住民の集会で,本当に生産的な会議は,なされているだろうか。堂々めぐりの言い放しの会議,議事進行側が一方的にしゃべりまくり,聴くほうは下を向いたきりの会議が多くないか。
 たとえば,企業の中ではどうだろう。 
 企業内における集団の問題が,会議のまずさ,対話力の乏しさが原因と思われる割合は,この十数年,企業のなかで過ごしてきたわたしの経験から言っても想像以上である。上司が,会議における部下の意見を集約できない,もしくは会議において部下が,自分の意見を遠慮して上司にいわない,またはうまくいえない。そうすると上司は,結果的に,自分の意見をおしつける。部下は上司に不満を持ち,上司についつい報告を怠る。上司には,ますます情報が集まらなくなる。そうすると上司は,乏しい情報のなかから,現場と遊離した結論を,エイヤでだす。部下は部下で勝手に仕事をすすめる。仕事は当然うまくいかなくなり,職場の雰囲気はますますわるくなり,組織はバラバラになる。これが,自己の反省もふくめた会議のまずさ,対話力の不足による企業という組織の問題発生メカニズムである。 
 こういった,企業における組織の問題が,過去において公害問題を引き起こしてきたのかもしれない。
 もともと,発表者が一方的に語るだけ,聞くだけの不毛の会議では,心を無にして多種多様の意見を自らの高い見識にもとずいてまとめる民主的リーダー,真のリーダーは不要である。だから,金と力にものをいわせるエゴの人が,ボスとしてのさばるのだ。
 言い放しの会議では,少数意見は不利でもあるが,無視される。多いほうが勝ちというだけで,多様な個性や,豊かな経験を持った個人が,わざわざ集まる意味はない。また,伝達だけの会議には,答えが前もって用意されている。しゃべるのは無駄なのだ。そんな会議が普通の社会は,問答無用の非民主的社会,日本国憲法前文にいう専制と隷従の世界に通じていく。
 この節の最後に,本第2章1節における日本人の対話力不足,会議の不毛の問題と,第1章第1節の江戸時代モデルの関係を論じておこう。
 日本人の心中深く潜んでいる江戸時代モデルでは,非統治者は,しゃべりがうまくなる必要はあまりない。会議というものが想定されてもいない。集会はあっても,集会に呼ばれたほうが発言するには,決死の覚悟がいる。ここまで考えると,江戸時代モデルが,日本人の対話力不足と議論の不毛の遠因になっていると思い至るのだ。

 

 第2節 アウトプット教育の充実と多様な遊びの場の復活により,多様な個性を育てよう。       

 1・多様な個性の表現力を高めるアウトプット教育が求められている。

 最近の新聞によれば,教育改革のキーワードは個性化と多様化だそうだ。良いことだと思う。前節の不毛な会議による諸問題を考えると重大な課題だ。さて,具体的にどうしたらよいのだろうか。
 私は,従来の読み,書きに力点を置いた教育とともに,話し,聞く,すなわち対話力を高めるための自己表現教育を充実させる必要があると考える。対話は,言葉のキャッチボールだが,日本人の多くは,従来言葉をひたすら従順に受けるだけで,投げるのに慣れていないのだ。まずは,相手の胸元に投げ込む力を磨くのだ。私はこれを,アウトプット教育と呼びたいと考えている。
 現在の,日本の教育においては,知識の吸収に時間を取られ,自分が学んだことは,いったいなんなのか考えをまとめ,その考えを友人達に伝達し納得させる力を伸ばす教育が不足していると考える。自己表現教育,アウトプット教育の充実である。自己の考えを人前で発表する,また,大勢の前で正々堂々かつスマートに議論ができる人材をおおく育てねばならない。
 この意見を持つに至った理由は,私の個人的な体験に深く根差すものだ。アメリカの大学の多くで,教育過程に単位として認められているデールカーネギーコースを受講し,自らの,特に弁論による自己表現力の不足を思い知ったのだ。振り返れば,小学校から大学まで,私は公立の学校で学んだ。そこでは,スピーチや討論の機会はもちろんあった。クラスのホームルームの時間に,新聞等で読んだことについて発表させるなど民主主義教育を着実に実践する尊敬すべき若き中学教師もいた。しかし,全体として見ると,自己表現教育,アウトプット教育は,手薄であった。
 私は,小学,中学の義務教育のみならず,高校.短大や大学等あらゆる学校で,読み書き,特に,話す聞く表現力強化の教育,アウトプット教育に注力してほしい。
 私は個人的な体験にもとずいて,いくつか提案しよう。第1に,デールカーネギーコースを日本でも大学教育に採用するのがよいと考える。スピーチを中心にヒアリングも学べ,対話力の強化に大変有益だ。第2に,米国の教育でよく行われるデイベートも良いかもしれない。もちろん,この2つは,日本語によることが前提である。第3は,日本で開発されている川喜田二郎先生のkj法も,聞く手法,判断の手法として有益である。また,会議手法としてのグループkj法を学ぶ事は,若者にとって大変価値があると信ずるものだ。
 日本人の自己表現不足の原因として,第1章1節に述べた江戸時代モデルが,我々の文化や考え方に残っているからだと私は考えている。

 

 2.家庭を単位にした地域社会の活性化を図るとともに,生き物や友人との豊かなやりとりを,遊びに復活させよう

 ここにおけるテーマは,子供のためのやりとり豊かな遊びの場の復権である。
 日本の子供たちの遊びを見ると,生き物や,友達とのやりとりが不足していないかと考える。
 私のこども時代,昭和30年代には,子供と,自然すなわち動物や植物達とのやりとりが日本のどこでもあたりまえのものとして見られたはずだ。私の育った宮崎の田園地帯には,農耕用の牛や馬や,田んぼの中には,げんごろうやみずすましがいたし,たにしがいた。田の脇を流れる灌漑用の側溝には,どじょうや鯰,鮒や鯉の子,蛙やトンボもいて賑やかだった。風のない田んぼで稲の穂がゆれ,魚鱗が光るのを見て,子供心をときめかした。田んぼには,なんともいえないやすらぎと香りがあった。
 昭和40年代のある日に,おそらく日本の田は一変したのだ。なぜならば,昨日までいっしょに遊んでいた鯉や鮒,鯰が,死んで小川を流れてきたのだ。田んぼの脇にたたずんで,私はあっけにとられ,友人達の死に涙した。最後にどじょうが流れてきたとき,私は子供心に噴り,くやしがった。気がついた時,田んぼは沈黙の死の世界に変わっていた。
 農薬を生んだ思想は,稲以外のものは一切認めない非妥協性と,他の生物の生命に対する人間の傲慢さに根差している。多少突飛ではあるが,この農薬の思想は,問答無用の世界,いじめや暴力の世界を私に想起させる。川喜田二郎先生は,その著書『創造と伝統』の中で,デカルト的な世界観,すなわち自己が世界の外にいるつもりの世界観を痛烈に批判しているが,農薬の出現の背後には,この考え方も確かに潜んでいる。
 ともかく,農薬の出現により,農村だけでなく都会地でも,子供のよき遊び友達である動物たちが,いなくなったのだ。もちろん,自動車の普及も,農薬とともに,この原因として,上げておかねばならない。
 動物という友達がいなくなり,また,近年の小子化現象で,兄弟も少なくなった。子供たちは,いきおい,テレビゲームやファミコンゲームなど,他者とのやりとりのいらない遊びに夢中になる傾向が出てきている。
 子供達は,遊びを通じて動植物や他者とのコミュニケーションを学べなくなっているのだ。
 私は,このコミュニケーションの少なくなっていく子供社会を,父母,特に父の地域社会への参画により,やりとり豊かな社会に変えていく必要があると考える。わたしは,良い土をつくれば良い稲は育つと考えている。人間社会に置き換えれば,良い家庭,そして良い社会が子供を育てると確信する。父母の手で,家庭とコミュニテイを,やりとり豊かなものにそだてあげるのだ。なぜならば,私は,日本そして宮崎という良いコミュニテイに恵まれ,成人できたと感謝しているからだ。
 現状の問題の一つとして,日本の多くの父親が,会社や勤務先というグループの中で滅私奉公に励み,子育てや教育に関わって来なかった事が上げられるはずだ。此のことが,子供の教育におけるいろんな問題を引き起こす原因の一つになっていると,私は見ている。父親が,職場のユニフォームや名刺からより自由となり,市民として自立し,まずは家庭のリーダーとして,そして市民の一人として学校等の地域のやりとり豊かなコミュテイ作りに貢献せねばならぬとつくずく思うのだ。

 

あとがき

 日本社会のありかたについて文章化していくうちにも,社会の諸事象,勇気ずけられる新聞等の記事にも多く出会った。兵庫県南部地震における多数のボランテイアの活躍,統一地方選挙における青島氏や横山氏の当選,95年3月のデンマークでの国連主催の社会開発サミットでの日本NGOの活躍,パソコン通信の普及,そして熊本の矢野君の白鳥社を中心とした市民出版の動き等,官権政治から民権政治にむけて変わっていく,市民が情報を発信する喜ぶべき時代の到来も,体感している。
 江戸時代モデルについて,中公新書に『武家の棟梁の条件』と言う題名の本があり,似たようなことを言っているようです。

 


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